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伝説のプロレスラー  福岡 晶

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高校時代は器械体操でインターハイに出場した程の運動神経。
ルックスの良さと美形な顔立ちから、人気のあった福岡晶。 
身長160cm 体重は増量した結果60kg。 現在はダイエットに成功し、別人の如く痩せられており、”現役時代のぽっちゃりの方が良い” ファンと、”今の激ヤセボディの方が良い” ファンにわかれるのだとか。

秋田県出身。1989年、ジャパン女子プロレスに入団した時から、その身体能力の高さは注目されており、「将来のスター選手」と言われた程。 ジャパン崩壊後はJWP所属レスラーとして大活躍。
第4代・JWP認定無差別級王者として、連続防衛6度を誇る他、JWP認定タッグ王者になる事、実に5度。
豊田真奈美に憧れ、部分、部分に豊田をコピーした一面も・・・。 華麗な空中殺法あり、寝技あり。

必殺技の1つが、テリー・ファンクがよく使用していたローリング・クレイドル・ホールド。 絡みついてリング内をゴロゴロ転ぶ(回転する)仕草にファンは熱狂。 
1993年6月3日、全日本女子プロレス VS JWP 対抗戦・北都激闘編シリーズ 中島体育センター大会において、憧れの豊田と対戦した際は、お互いが黒コスチュームで登場。 背格好の似ている二人が絡み合い、ローリングしてマットを転がると、一体どっちがどっちなのやらわからない状態に(笑)

人気も定着した1998年1月 「福岡晶写真集」(郡司大地撮影 ビクターエンタテインメント 定価2983円)を発売。 結局、美形女子レスラーの行きつくところは・・ ヌード写真集。 ”写真集” とはなっていますが、ヘア以外の全てを丸出しにしたヌード。 

1998年10月11日の試合中に首を負傷。
結婚も決まっていた事もあり、惜しまれつつも引退。(引退試合は1999年3月28日)
現在は秋田県で飲食店を経営しているとの事。(秋田駅近くにある ”留り木” という焼肉店)
たまにプロレス関係のお手伝いでいない時もあるようですが、普段は働いており、本人にも会えるとの事。

孫は何よりの良薬 ”お咲希さん”

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平成28年3月5日(土) 晴れ
前回、西予市宇和町の実家に帰省した折、ババ様が原因不明の咳をしていましたが、その咳が元で腰椎圧迫骨折を起こしたとの事。
「骨折」と聞くと驚きもありますが、この腰椎圧迫骨折は、年寄り(特に女性)の大敵と言われる程身近な存在。
無理な体勢で身体をひねったり、今回のように身体負荷の激しい咳を繰り返すだけでも、ごくたまに発生してしまうやっかいな骨折です。(手術や入院に至らないケースが多い為、コルセットして自宅療養するケースが多く、” 辛い” と嘆かれる方が多いです。)
本日、様子伺いも兼ねて実家に帰省。思っていたよりは症状も軽く、重たい荷物運んだり、かがんでの動きをしなければ大きな痛みは生じないとの事・・・。(来週からはコルセット生活らしい・・)

しかし、3歳7ヶ月の ”お咲希さん” には、ババ様の骨折なんて理解できるわけもなく、今回も好き放題に甘えまくり。 そんな自由人の我がままが、ババ様には、何よりの薬になると言うのですから、孫のパワー恐るべし。
昨年秋に、ジジ様は脳梗塞の一歩手前で入院・・ その上、元気なババ様が圧迫骨折・・
松山市の自宅から車で1時間とはいえ、今後、この年寄りたちをどうしようかと悩むところです・・・。

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腰が痛いと言いながら、甘える ”お咲希坊” をだっこ・・・。 困ったもんです。

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伝説のプロレスラー  ヤマハ・ブラザーズ

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1967年(昭和42年)1月、日本プロレスより、二人の小型レスラーがアメリカ遠征に出発。
身長170cm 体重100kg の山本小鉄 ・・・ 当時25歳
身長170cm 体重105kg の星野勘太郎 ・・・ 当時24歳

後に 「新日本の鬼軍曹」 と呼ばれた小鉄は、1963年(昭和38年)に日本プロレス入門。
ボディビルで鍛え、力道山に入門を直談判しますが、「お前のようなチビは無理だ」と一蹴。この悔しさをバネに、1年間鍛えこみ、再度直談判を試みるも結果は同じ。 冷たくあしらう力道山を睨みながら、口を震わせる姿を見た力道山が真剣さを認め、逆転入門を果たしたという豪傑。(力道山最後の弟子とも言われています)

後に 「新日本プロレスの突貫小僧」 と呼ばれ、魔界倶楽部総帥になった星野は、ボクシング出身。
プロヘビー級でも通用すると言われたメガトンパンチを持ちながら、身長が低く、重量級ボクサーとしてやっていくにはリーチが足りない事から1961年(昭和41年)プロレスに転向。 ボクサーらしいスピーディーな動きとパンチを武器に頭角を現すと、翌年には早くもアメリカ武者修行きが決定したという実力者。(ちなみにヨ・コンブという在日・朝鮮人)

1967年4月から二人は、アメリカでも気の荒さNo1というダラスを本拠地にて大暴れ。
小鉄がグランド展開でペースを作ると、ボクサーらしく星野がかき回し、最後はトップロープから小鉄が(時に星野が)ボディ・プレスでフォール・・ というのがお決まりパターン。 
小柄な二人がパワフルに大男と互角の勝負をする姿に感動したファンが、「小型でパワフルな、ヤマハのエンジンみたいだ」 と言い出し、コンビ名を 「ヤマハブラザーズ」 にしたという説が有名ですが、異説では、「山本のYと、星野のHをくっつけようと模索していた時に、日本人関係者がヤマハを提案したというものも有り。
二人とも亡くなっているので、今となっては真相もわかりませんが・・・。

ダラス時代は、”鉄の爪” フリッツ・フォン・エリック に気に入られ(特に小鉄が)、エリック宅にてお世話になっていたとの事。(実は住み込みさせてもらっていただけで、代償にエリックのお世話をしていた異説も有り。)
この間に、NWA世界タッグ王者(テネシー版)や、NWA南部タッグ王者を獲得していますから、いかに人気があるチームだったのか・・・ わかります。

新日本プロレス所属レスラーとなった後の1979年、国際プロレスに殴り込みを行い、IWA認定世界タッグ王者を獲得。 相手が草津&浜口という国際プロレス主軸だった事で名をあげる結果となりました。 
(主力レスラーが小型チームに敗戦し、団体目玉タイトルを奪われた事で、国際の倒産が早まったとの声もあります。)

1980年(昭和55年)、山本小鉄の引退にて、ヤマハ・ブラザーズも解散。
ちなみに信じがたい事ですが、ブラザーズといってもコンビ名に過ぎなかった二人の死去日は・・・
小鉄=2010年8月28日(満68歳) 星野=2010年11月25日(満67歳)・・・。
ファンの間では、「まるで、兄(小鉄)を弟(星野)が追っかけたみたいだ・・・」 と都市伝説化にされた事も。

伝説のプロレスラー  大森 隆男

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1960年(昭和35年)、当時NWA世界王者だったパット・オコーナーを王者として設立されたAWA。
当時、AWAを名乗る団体は幾つか存在したようですが、バーン・ガニアによるAWAに吸収。 その後、NWAから独立し、「NWA AWA WWWF」 は、”プロレス世界三大タイトル” と呼ばれるようになります。
しかし、隆盛を誇ったAWAも、WWFの勢いには逆らえず、1991年をもって活動停止。
1984年(昭和59年)、ジャンボ鶴田がニック・ボックウィンクルから奪取して話題となった栄光のベルトは封印される事に・・・。
大森隆男のタイトル歴を確認すると、3度のAWA世界王者となっていますが、これはあくまで別のAWA。
後にWWEの抗議もあって、WSL世界王者に名称が変わった、ローカル版のAWAであります。

身長190cm 体重110kg という日本人離れした体格。
城西大学時代、アメリカン・フットボールの名選手だったという突進力を活かして、必殺技は ” アックス・ボンバー” というあたり実に面白い・・・。
ハルク・ホーガンが、スタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットをヒント・改良して生み出したエピソードは有名ですが、ラリアートが相手の喉笛を打撃で圧迫させる技なのに対し、アックス・ボンバーは肘をL字に曲げる分、相手の顔面に打撃を加える技。 その為、相応の体格と太くて頑丈な腕がなくては見栄えも悪く、効果もでないわけですが、日本人レスラーがフィニッシュ・ホールドに使用するとは、当時(ホーガンが新日本常連だった頃)、誰も予想すらしなかった事だと思います。(異名は ”和製ヘラクレス”)

全日本プロレス時代はタッグ・マッチの名手と言われ、全日本の至宝であるアジア・タッグ王者に君臨。同時に、世界タッグ王者にも君臨するという快挙も成し遂げています。
また世界タッグ王者につくこと、実に計6回にもおよび、世界最強タッグリーグ戦では優勝2回。
プロレスリング・ノアでは第3代GHCタッグ王者。 
ZERO-ONEでは第9代、11代、17代 NWAインターコンチネンタルタッグ王者。
新日本プロレスでは第49第IWGPタッグ王者。

もちろんシングルでも数多くのタイトルを獲得。
AWA世界ヘビー王者の他、三冠ヘビー王者、NWA・UNヘビー王者、WLW世界ヘビー王者、EWA世界ヘビー王者等々。

性格は温厚かつ感情派。 チビッコファンを大切にする事で有名。 「プロレス界一の紳士」 と言われ、ハンサムレスラーとしても人気者。 女性ファンの多いレスラーでもあります。
2014年4月、チャンピオン・カーニバルで初優勝。(実に11回目の出場にして) 現在46歳(H28・3時点)になりますが、まだまだ第一線で活躍中。

伝説のプロレスラー  高崎山 猿吉(魁 勝司)

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怪力無双の豊登は、異常なまでのギャンブル狂い。
昭和41年、猪木を担いで立ち上げた東京プロレスも、豊登の私利私欲(売上をもっては競輪場に行ってしまうは、招聘外人のギャラまでギャンブルに投資してしまうは滅茶苦茶)が元で、わずか3ヶ月で崩壊。 猪木が豊登を訴えるという泥沼状態に・・・。(後に和解)
そんな豊登でしたが後輩レスラーへの面倒見が良く性格的には温和だった為か、意外にも若手には慕われていたそうで、リングネームの名付け親になる事が多かったようです。

しかし・・・ その付け方が問題。 流石ギャンブル狂らしく、任侠モノ映画や出身地にちなんだものや、動物名を交えて命名する事多々。(豊登は動物の名前を好む傾向あり)
ミスター林 → 林 牛之助
大熊 元司 → 大熊 熊五郎
魁 勝司 → 高崎山 猿吉 (これは、魁が大分県出身である事も理由らしい)
上田 裕司 → 上田 馬之助 (動物の他、任侠モノ映画にも影響されている)
山本 勝 → 山本 小鉄 (任侠モノ映画に影響)
星野 建夫 → 星野 勘太郎 (長谷川一夫主演・伊那の勘太郎から命名) 
田中 政克 → 田中 忠治 (国定忠治をもじったもの)
グレート小鹿 → 小鹿 雷三 (任侠モノ映画に影響)
グレート・カブキ → 高千穂 明久 (宮崎県出身にて)
アントニオ猪木も豊登が命名していますが、これは猪木がブラジル移民者だったからつけたもの。(日本中に佐藤さんや鈴木さんが多いのと同じで、ブラジルにはアントニオさんが多い事を豊登が面白がってつけたもの。よく、力道山が招聘したくても人気があり過ぎて不可だったアントニオ・ロッカから命名した説が流れますが、力道山は、自身のお気に入り漫画 ” チャンピオン太 ” に出てくる 「死神酋長」 を猪木のリングネームにしようとしていました。 たまたま力道山が亡くなったのでよかったものの、存命してたら猪木は哀れな結果に・・・。

魁 勝司は大分県安岐町出身。
身長175cm 体重90kg少々 という小柄ながら、1961年に日本プロレスに入門。
豊登が猪木を担いで東京プロレスを設立すると参加。 
豊登より大分県出身という理由で、リングネームを 「高崎山 猿吉」 と命名されてしまいます。
東京プロレスが崩壊後は猪木と日本プロレスに復帰。本名の北沢 幹之に戻しますが、後に魁 勝司に変名。
(他にも、新海 弘勝 と名乗った時期も有り) 猪木を慕っており、新日本プロレス草創期より参戦。 関節技のテクニックには定評があり、1976年(昭和51年) カールゴッチ杯では優勝。 1981年4月に引退。

人柄が良く、同じ大分県出身の藤波が、「同郷」というだけの理由で日本プロレス入門に際し頼ってきた時、日本プロレス幹部に入門口添えしたのも魁。 また実力も評価されていた為、有望なレスラーがいるとデビュー戦相手になる事が多く、藤波、佐山聡、ヒロ斉藤 の相手もつとめています。

2009年、新日本版プロレス殿堂入り。(グレーテストレスラーズ)
74歳(H28・3時点)になられますが、まだ現役レフリーを続行されているとの事。

伝説のプロレスラー  北尾 光司

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世の中には変わった男がいるものですが、この男くらい変わった男も珍しい。
恵まれた体格を活かして横綱にまでなりながら、わずか3場所で廃業。 それも、”ちゃんこ鍋が不味い” と怒り、女将さんを押し飛ばして部屋を脱走。 ホテルに立てこもり、説得にきた者も追い返す我がままぶり。
廃業後は、「プロレスだけはやりません!」 と言っておきながら、新日本プロレスよりオファーを受けるとコロッと態度をかえ入団。
1990年2月10日、クラッシャー・バンバン・ビガロ戦でデビューという厚遇を受けながら、場違いな高飛車パフォーマンスで失笑を買い、以後も単調で内容のない試合を繰り返すものだからブーイングの嵐。 
練習嫌いで受け身が苦手。 ブレーンバスターをかけられた際、恐怖心から受け身をとり損ねて怪我を負い、以後、「あっちが痛い」「こっちが痛い」と我がまま放題、怠け放題。 ついには試合を独断欠場する有様。 
現場責任者だった長州が、「練習しない奴は使わない」と発言するや逆ギレ。 「勝負して負けたら言う事をきく。怖いのか? この朝鮮人野郎!」 と民族差別発言を発し、結果、新日本プロレスを追放される事に・・・。

そんな北尾が、相撲の先輩である天龍を頼った事で振興団体SWSに参戦。
少しは大人になったかと思えば、ジョン・テンタ戦において、レフリー暴行で反則敗けとなるやブチ切れ!
試合後マイクをもち、「八百長野郎!この野郎、八百長ばかりやりやがって!」 と怒りまくり、プロレス業界のタブー発言を連発するという暴挙。 これによりSWSも解雇・・・。
その後、「やりたい事はやり遂げた!」と強がった挙句、「スポーツ冒険家」 だの 「ナイフ評論家」 だのと、わけのわからない職?を転々。 そして、今度は総合格闘家に参戦。

1992年5月8日 横浜アリーナ大会で山崎一夫に勝利するや、「決着のついた奴とはやらない。今度はもっと強い奴が良い!」 と調子にのった高飛車発言で大ヒンシュクを買うも同年10月に、高田延彦と対戦。 
当初は時間無制限一本勝負であったが、試合直前になって「北尾の代理人(一説ではヤクザ)」という者が強行して3分5ラウンド制に変更。その他、予定されていた流れ(筋書きがあったらしい)に文句を繰り返した結果、3Rに高田のハイキックを顔面に受けKO負け。
(調子にのって高田に”好きなだけキックをどうぞ”とチャカした報復とも、たまたま急所にキックが決まった為とも言われていますが、高田と北尾の言い分が違っていて、真相は謎)

評判ガタオチの中、SWS時代、あれだけ迷惑をかけた天龍を訪ねていきWARに居座るふてぶてしさ。
幾つもの団体を渡り歩き、1998年5月には全日本プロレスに参戦し、田上とのシングルが組まれるも、またも直前になり、「やりたい事はやり遂げた!」と現役引退。
引退後は、相撲時代に前代未聞のトラブルを起こし脱走・廃業した立浪部屋に、相撲アドバイザーとして復帰するのですから、義理も恩も恥も糞もない男とは、このような人間を言うのでしょう。(それもコアマガジン発行の暴露本によると、現在は行方不明らしい)

とにかく言う事、なす事、子供と一緒。ジャックナイフ収集の他、エアガン遊びが大好きで、相撲時代には弟子を撃っては遊ぶは、プロレス入り後も後輩レスラーにむかって 「パンパン・・ おい!お前、今俺に撃たれたんだから死ねよ!」とはしゃいだり。他にも、ファミコンをして遊んだとイジメ(暴力)たり。 そのくせ、横綱時代の ”ちゃんこ鍋不味い事件” での釈明では、「私程、弟子を思う横綱はいない。立浪親方は古いタイプの人間で、弟子にも理不尽な事をさせるので、なんとかしようとするうちに騒動になってしまった。女将を突き飛ばしてはいない。あれは出て行こうとした際に、振り払っただけ。私はホテルに閉じこもりながら、親方と和解するつもりでいたのだが、女将が先に警察に連絡してしまって、廃業(一方的)にさせられてしまった。けっして相撲が嫌いでやめたのではない・・」ですから・・・。

甘やかされ育ち、相撲時代から「我慢」を知らずに出世。(嫌な事があると、「家に帰らさせていただいます」と言っては周りを困らせる常習犯)
人間性に欠けている事は有名にもかかわらず、優勝経験なしでの横綱昇進をさせてしまった相撲界の責任は重いですね。またそんなトラブル男を引っ張ってしまったプロレス界。
お互いの世界、北尾によって受けた損害は莫大なものとなって今に残ります。

伝説のプロレスラー 大谷 晋二郎

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「プロレスラーに誇りをもて!」を信念に、熱き思いで取り組む姿は多くのファンの共感を呼び、その性格やスタイルによって ” 日本一熱いプロレスラー ” と呼ばれる大谷晋二郎。

生まれ持ったレスリンスセンスで、高校時代はインターハイ&国体に出場し、両大会ともベスト16入りという実績をさげ、1992年2月に新日本プロレス入門。 わずか2年でUWA世界Jrヘビー級王者となった実力者。
1997年8月には、第5代ジュニア7冠王座に君臨し、ジュニア最強の男と言われた時期も・・・。
以後、主なジュニア・タイトルを根こそぎ獲得。 1998年以降はヘビー級に転向しますが、投げ技、飛び技、蹴り技、関節技、なんでもOKという万能プロレスは、現在のプロレス・スタイルの先駆けとも言われます。

=主なタイトル=
IWGPジュニア・ヘビー  IWGPジュニア・タッグ  UWA世界ジュニア・ヘビー  WWF世界ライト・ヘビー
WWA世界ジュニア・ヘビー  NWA世界ウェルター  英連邦ジュニア・ヘビー                       WARインター・ナショナル・ジュニア・タッグ  NWAインターコンチネンタル・タッグ その他 多数。

勝気な性格の為、体格差の激しい相手にも正面からぶつかって行くのが信条。
2006年1月22日、後楽園ホールにてスティーブ・コリノを破り、AWA世界ヘビー級王者に・・・。
同年4月1日、大森隆男の必殺・アックスボンバーのまえに王者転落するも、日本プロレス界を代表するレスラーとして人気を集めました。

得意技はミサイル・キックの他、ドラゴン・スープレックス コブラ・ホールド  顔面ウォッシュ  スワンダイブ式ニールキック  スパイラル・ボム ・・・多数。
1972年7月21日 山口県出身。 身長180cm 体重100kg前後。
43歳(H28・3時点)となる今も、第一線で活躍中。

違法操業の中国漁船を撃沈に称賛の嵐

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「人の物は自分の物」「嘘をつくのは正しい。騙される奴が悪い。」「世界は中国の為にある」「人がどうなろうが関係ない。自分が儲ける事が一番。」「世界のルールは中国の為にある。」「汚染も絶滅危惧も自分たちには無関係」・・・
世界中に中国人汚染が広がり、どの国からも迷惑がられている問題国家中国。
発展途上時代は極貧民族で蚊帳の外。 それが少々小金持ちになった途端、態度急反転して好き放題。 マナーを知らず、自分の意に叶わぬと逆切れ、大騒ぎの常習犯。 そんな中国人の持つ 「お金」 欲しさに、本心は嫌いでも 「ウエルカム・エール」 を送り続ける日本の商売人たち。
昨年、大問題となった中国漁船によるアカサンゴ奪略事件の際、昼間から200隻以上もの大船団が海上泥棒を行っていても、「遺憾だ~ 遺憾だ~」とTV前で念仏を唱える菅官房長官に安倍総理大臣殿。

そんな中、2016年3月16日、アルゼンチン沿岸警備隊が、違法操業を繰り返し停船命令を無視する中国漁船を撃沈したというニュースが流れ、ネットユーザーからはアルゼンチンに対し称賛の嵐。
「アルゼンチン、良くやった! 素晴らしい」 「アルゼンチン沿岸警備隊ばんざい」 「ぬけぬけと悪さする中国人なんか助ける必要ないのに、アルゼンチンの人たちは優しいです」 「自分よりも弱い国には特に好き放題の中国人、まさかアルゼンチンにやられると思っていなかったのだろう。ざまーみろ。」 「日本の弱腰が問題。少しはアルゼンチンを見習え!」 「アルゼンチンのした事は普通の事。目の前で泥棒されても何もしない日本政府の弱腰が問題。」 「地球規模で違法行為の中国。少しは懲りただろう」 「尖閣体当たりの際、日本もこうすべきだった」「これが世界の常識ですよ」「アルゼンチンを見習おう!」「今年最高のファインプレーですな!」「日本の生ぬるい対応は相手を増長させるだけ。少しはアルゼンチンを見習え!」「日本もアルゼンチンを見習って領海を犯す輩は徹底的に強行対応を!」「違法漁船対策の見本です」「このくらいしても相手は無法国家・中国。また同じ事するのだろう」「アルゼンチン、有難う。日本は恥ずかしい。」「今回のアルゼンチンの行動は実に意味深さを感じる」「中国人にはこれくらいの対応が必要。日本人はなめられている!」 等々、ネットニュースだけを見ても、実に5361件もの称賛コメントが・・・。

2015年5月、中国メディアの公表によれば、日本人の93%が中国に対する不快感をもっているとの事。また先月の内閣府調査アンケートでも83%以上の日本人が、中国に対して好感を持っていない事を公表している。
他国領土を突然 「我が国固有の領土」 だと言い出し、戦略的な目的で人工島を作ったり、平気で地下天然資源を略奪する中国に対し、まだ20%近くもの日本人が好感を持つと答えるあたり、いかにも日本人がおめでたい人種かわかるものの、中国を嫌う日本人がどれほど多いのか、今回のニュースからもわかります。

伝説のプロレスラー  大向 美智子

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身長171cm 体重60kg というモデルのような体型。 誰にでも受け入れられると言われた美貌。
このような美女が、クラッシュ・ギャルズに憧れ、中学卒業後に全日本女子プロレス入りを果たすのですから、バブル経済当時(1991年入門)のバブル元禄がいかに凄いものであったか思い出されます。

但し・・ 大型で美貌は良くても、格闘経験のない大向はレスラーとしての評価を得るには時間がかかり、慣れないプロレス特訓中に右膝靭帯損傷というアクシデントに見舞われデビュー前にして退団。
その後もレスラーへの夢を絶ち切れず、ジャパン女子プロレスから分裂した新興団体LLPWに入団。 そんな苦労人の大向に1994年チャンス到来。
これは全日本女子プロレスにあった ”全日本タッグ選手権” が、LLPW所属の半田美希&紅夜叉によって移動した際、キャロル美鳥とのコンビで奪取に成功。 短期王者ではありましたが第18第王者としてファンにアピール成功。 以後、LLPWの主力レスラーとして活躍します。

しかし、当時の女子プロレスは人気下降状態。 まだケーブルTVも普及されていない中、団体経営も悪化の一途。そうなると美女レスラーの最終兵器といえば 「ヌード写真集」 の販売。 まずは竹書房より 「BLOOMING」 を出版。 美しき現役レスラーとして話題沸騰。

アイドル路線では人気者になるものの、レスラーとしては伸び悩んでいた1997年、その人気と将来性に目を付けた新興団体アルシオンから勧誘を受け移籍入団。 するとこれまで古参レスラーに押されてくすぶっていた才能が開花。 女子プロレス史上最強説(神取とならび)の声高き アジャコング とも互角に闘う等、ファンに存在を大アピール。 2002年には憧れだったライオネス飛鳥にも勝利。 団体というよりも女子プロレスの頂点にたったとさえ言われました。

2003年、経営難のアルシオンを退団しフリー宣言。 全日本女子プロレス35周年大会では、新日本プロレス・金本浩二と一夜限りのタッグを結成し、男女混合試合に出場。
流血試合にも強く、2005年には総合格闘技にも参戦。 韓国のイ・ヒジン戦では鼻骨を折られ大出血の中、パンチ連打やバックドロップで勝利。 セメントにも強い ”リアル・女子レスラー” を名乗ります。

2007年12月9日、自主興行をラストマッチ(引退試合)とし、惜しまれながら引退。
翌年には結婚。 現在は山口県に在住。(夫はファッション、寝具、健康機器の大手会社エムラの御曹司とか。結婚当時の年商は70億円。) 

他の女子レスラーにも希望と夢を与えるカリスマ。 美人は得。 ちなみに2009年 「かわいすぎる海女」 として有名になった大向美咲は親戚との事。 美人も遺伝する良い例。

生活保護になって楽しく生きよう!

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大分県別府市と中津市では、生活保護者がパチンコ店にて保護費を娯楽消費する問題に対し、指示に従わず娯楽費に当てる受給者は、保護受給時における誓約違反(両市では、受給者申請時において、保護費を過剰な娯楽費に当てない事を盛り込んだ誓約書を提出させている)として、一部保護費の差し押さえを行った。
全くもって当たり前の事。なぜならば法規による生活保護とは、「働ける者は働く」 事が前提になっており、あくまで人間として生きる為の最低保証を守り、文化や生存に対する社会保障としての役割をうたっている。
つまり、病気等や事故等による身体的理由や、災害等により保護を必要とする者及び、年齢的な理由で働くだけの能力をもたない者等が主な対象であり、失業だの離婚だのといった理由だけで、その者の勤労能力や年齢等も関係なく 「全て保護」 とする事が、本来の目的ではない。
にもかかわらず、厚生労働省や大分県は、「法ではパチンコをしてはいけないと定義されていない」 との理由で、両市の行った保護費の一部差し止めは違法に当たると指摘し、今後の撤回を求めた。 
社会保障費が膨れあがる中、少子化で税収減が問題となり、高齢化社会による医療費・介護費が連日のように報道される中、税金で保護を受けている者は、日中から楽しくパチンコで遊ぶ・・・ それを国や県が承認する・・・ バカバカしいにも程がある。
これがパチンコではなく、受給者が別府温泉に通った事に対し、別府市が「娯楽」とか「贅沢行為」だとして、温泉出入りを差し止めたとか言うのであれば、行き過ぎ行為と言われても仕方がない。
しかし、「パチンコ」の話である。 これでは真面目に働く者が馬鹿をみるだけ。

ちなみに2014年の朝日新聞記事による生活保護者の実態を検証すると・・・
当時、夫と離婚して、中学2年女子と11歳男子を育児する母親が生活保護となり、なんと月29万円の保護費を受給しておきながら、「子供たちに満足な生活を与えられていない」と不服・・・ という記事が。
もちろん税金関係なし、医療費関係なし、義務教育費も関係なし。 29万円の支給費のうち、家賃が5万4千円であり、残り25万円は長女が体操教室や習い事、長男は野球クラブといった娯楽費に月4万円。 21万円もの金額で高級食材を買い、取材時にはその食材に半額シールが貼ってあるものを見せ、「節約しても生活が苦しい」と訴えるのだから、こんな馬鹿を保護する市役所はもっとアホ。

これが国や県が推奨する生活保護の姿だというのであれば、生活が苦しいと思っている方、明日にでも地元の市町村に行き、一刻も早く生活保護受給を受け、毎日パチンコして楽しく遊んだり、高級肉を食って過ごされてみてはいかがでしょう。 国や県が生活を約束してくれるのですから、安心して過ごせますよ。

伝説のプロレスラー  高山 善廣

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総合格闘技戦 5戦 5敗。
しかし、敗けてもその壮絶な試合を見た者は、あらためて高山の凄さに感じ入る・・・ 「これぞ!プロレスラー」 という無茶苦茶な戦いぶり。 高山には不思議な魅力がついてきます。

2002年6月23日 ”PRIDE21” におけるドン・フライ戦は、今や日本のみならず海外でも 「伝説」 となった大一番となりました。
ゴングが鳴るや、二人は飛び出しからみつき、お互いの顔面を破壊するかのパンチ攻撃。
体格で勝る高山ながら、身長さが災いしたのか、パンチはドン・フライの頭部にばかり命中。 それに対し、フライのパンチは高山の顔面をとらえ、連打連打。 必死の高山は膝蹴りも加えて反撃しますが、結局は空しくも1R 6分10秒、マウントパンチTKO敗け。 試合後、高山の顔は腫れ上がりバケモノそのもの。
でも、その顔が試合の壮絶さを物語っており、プロレスラーの意地を見た試合でもありました。
後日より、ドン・フライはこの試合の後遺症に悩まされる事になります。
フライの話=「 あの試合で肩を壊して、計4回も手術をした。手術の度に、何週間も動けない日々を過ごした。 歩くと響くくらい腰が悪化し、いきなり倒れた事があった。 手術もしたが、脚が痺れて立ち上がられなかった」

2002年12月31日 ” INOKI BOM-BA-YE 2002 ” ではボブ・サップと対戦。
乱打戦の再来を期待されるも、体格が勝るサップに倒されマウント・ポジションを取られるはめに。
当初はなんとかブロックしながら耐えますが、サップの「鉄槌パンチ」が顔面を襲い、戦意喪失したところを腕ひしぎ逆十字固めにとられ、1R 2分16秒 ギブアップ敗け。
一見凡戦にも思えますが、サップの重いパンチに耐える姿は、まさにレスラー魂。

勝ち負けではない、「一本気な男の真剣勝負」はジャンルを越えて、多数のファン獲得に成功。
もちろん本業のプロレスでも大活躍。 ”馬場&猪木” という昭和プロレスのカリスマ達が、高山に対して高評価をくだすように、ロープをまたぎ入る姿はダイナミックそのもの。
新日本では憧れのIWGPヘビー王者の他、第46代IWGPタッグ選手権に君臨。
ついには、高山自身が憧れていたという 「NWF」 のベルトを巻く栄冠に・・・。

顔面を破壊しながら壮絶に散っていく大型レスラー高山。
捨て身のパフォーマンスは、彼にしかできません!

”保育園落ちた” を一方的批判する杉並区議が出現

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東京都杉並区議をしているという” 田中 裕太郎(自民党) ” とかいう男が、「保育園落ちた 日本死ね」 というネット騒動について 「便所の書き込み」 「そんなに日本が嫌いなら、日本に住まなければよい」 「こういう書き込みに対して騒ぎ立てる者たち(野党議員)の方がどうにかしている」 ・・・ といった持論を公表し、更なる騒動に油をそそいでいる。

はっきり言って、こんな男が区議かなんか知らないがやっているからダメなんです。
っというのは、この男、この問題の 「本質」 が理解できていない。
何故、この書き込みが炎上したのかを整理すれば、単純に 「保育所の数が足りたい」 こと、そしてその主な理由は 「保育士の仕事は責任面も含めて重いのに、同業種と比べて給与が安く、なり手が少ない」 ことにあります。

政治批判的な内容や逆切れ文章だけを見れば、賛否両論もあるかもしれませんが、現実に起こっている問題点や、この書き込みから伝わる厳しい状況だけは、たとえ誰が書いたにせよ目を背けてはいけません。
なのに、「便所の落書き」であり、このようなことを騒ぎ立てるは馬鹿の滑稽と、民意を切り捨てるような男が議員。

「物事を考え、検討する時は、三方向から考えよ」 「喧嘩両成敗。一方的に自分の考えだけで決めつけるな」 「言葉の傷は一生もの。一度出した言葉はもう修正はできない」 これ、政治家を含めた社会常識。

杉並区の住民さんも、もう少し人を選ぶ時は、これらの常識が身についている人を選ばれた方がよいと思います。

伝説のプロ野球選手  平田 勝男

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1976年(昭和51年) 夏の甲子園大会 準決勝・第二試合は PL学園 VS 長崎海星 の対決。 
長崎海星の平田は2年生ながらショートのレギュラー。 
PL学園は前日(8月19日)の準々決勝において、強豪の中京(愛知)を 9-3 で圧勝しており、下馬評ではPL学園が有利。 しかし試合はもつれにもつれる好試合となるも、残念ながら3-2で敗戦。 長崎海星旋風として、高校野球史に名を刻みました。
(この大会の覇者は延長11回にサヨナラ優勝を決めた桜美林)

明治大学に進学すると、確実な小技に磨きがかかり、実況者が 「平田のバントは100発100中」 と大絶賛。
長打はないものの的確な打撃(83試合 打率313)及び守備力も評価され、六大学リーグにおいて4度のベストナインに選ばれる大活躍。
1981年(昭和56年)のドラフト会議において、阪神タイガースより2位指名を受け入団します。

入団2年目の1983年、100試合に出場しショートのレギュラーを獲得。
1984年~1987年にかけて、「4年連続 100安打以上」 「4年連続 ゴールデングラブ賞受賞」 を達成。
また得意の犠打は、1983年~1987年にかけ、5年連続で二桁犠打をマーク。 この間、長打はないも、5年連続で二桁二塁打を放つ等、阪神の陰の実力者として人気を博しました。

明るいキャラ及び、1985年(昭和60年)の阪神日本一レギュラーという事も、いまだに平田人気の理由。
この年は打撃も好調で、125試合 402打数 105安打 15二塁打 7本塁打 53打点 6盗塁 打率261。 
7番打者ながら犠打数は25とチームに貢献。 クリーンナップ(バース、掛布、岡田)や真弓といった派手さはないものの、平田の存在で、下位打線からでもチャンスを作れる事も、あの時の阪神の強さ。

1994年をもって現役引退。(阪神一筋) 
解説者、野球評論家をしながら、要請に応じて阪神のコーチ等も数々。
2015年は阪神一軍ヘッドコーチ。 2016年~から阪神一軍チーフ兼 守備・走塁チーフコーチ。 

伝説のプロレスラー ザ・ファンタスティックス

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= トミー・ロジャーズ =
身長180cm 体重105kg 1961年5月14日生まれ

= ボビー・フルトン =
身長185cm 体重105kg 1961年10月4日生まれ

1984年(昭和59年)に二人はタッグを組み、「ザ・ファンタスティックス」 を名乗ったところ大人気。
当時のアメリカン・プロレスの販売ビデオにも登場。 
紹介では、「今、アメリカ中で一番ホット(熱く)で人気者チームが、ザ・ファンタスティックスだ。 小柄だがコンビネーションよく機敏で上手い。 とにかく彼達の行く先はいつもファンで満員なのだ!」 との事。

では実際の試合を観てみると・・・ 正直、” なんじゃこりゃ~ ” って感じ。
当時はAWA圏やNWAの南部を主戦場にしていた為、どうしても大型レスラー相手が多く圧倒されてしまいます。
まあ、そこをタッチワークでかわしながら、必殺の ” ファンタスティック・フリップ ” で逆転勝ち・・ がお決まりのパターン。 かつて、力道山がよく使った盛り上げ方 (やられ、耐えながらの逆転勝ちにファン興奮) に似ているような気がしました。

ちなみに、このファンタスティック・フリップとは、どちらか一人がトップ・ロープにあがり、もう一人が下から相手に向けて相棒を投げる事で、人間ロケット砲のようになるという大技?です。
他にも、ファンタスティック・ミサイル・キック という合体型のドロップ・キックもありました。
いかに人気があったのか・・・ 結成して間もなくして、NWA認定アメリカン・タッグ王者になっています。
ただ、派手やかなコスチュームで入場し、こういった技で試合展開をすると、アメリカ人は大興奮しますが、日本人の感覚には合わないような・・・?

1989年7月になって、やっと全日本プロレスにて初来日。(ファンタスティックスとして二人で来日)
以後もポツポツ来日。 徐々に試合運びや持ち前の機動力は評価され、人気も高まっていったチームでもあります。(当初からタッグとしてのコンビネーション等を高く評価する玄人ファンもおり、実に賛否両論・・・)

アメリカでの人気は好調で、幾つものタッグタイトルを獲得。
1980年以降、「ショー的」要素を好むアメリカ人と、真剣勝負を好む日本人の違いも、人気の違いとしてあらわれています。 日本ではハンセン&ブロディ人気でもわかるように、誰もが納得できるだけの実力等が評価基準。 そのあたり、ファンタスティックはちょっと損したような気がします。

伝説のプロ野球選手  清川 栄治

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伝説の名投手 ” 沢村 栄治 ” の母校として名高い 「京都商業(現・京都学園)」 出身。
1978年(昭和53年)第60回 夏の甲子園大会では控え投手として出場するも、一回戦で県岐阜商の前に敗退。(スコア3-2) 翌年はエースとなりますが、地方予選で敗退し甲子園行きならず。 こんな未完の大器にプロからの声はかからず大阪商業大学に進学します。

大学時代は1年生時から主戦力として活躍。 関西六大学の最多勝利記録(当時)を塗り替える活躍を見せ、ベストナインにも1回選出され、地方に埋もれている逸材として注目をあびる存在に成長。(リーグ24勝8敗)
しかし、大学4年時に体調不良で登板回数が減ったこと等がマイナスとなってか、期待のドラフトでは指名球団が現れず、1983年、ドラフト外で広島カープに入団。

自称=本格派投手 と豪語するように、速球には自信があったみたいですが、当時の広島と言えば ” 投手王国 ” と言われた程の布陣。 中途半端な速球投手では通用しない事を知るや、自身の持ち味を活かしながらプロに通用する手段を模索。 行き着いたのが 「左サイドスローにより、左打者封じを行う」 というもの。

今でこそホールドといったタイトルも生まれ、中継ぎ投手の評価も安定しましたが、当時、自ら中継ぎを希望する者は稀。 (先発完投もしくは、7~8回からリリーフを仰ぐパターンが主流であり、細かな継投は先発の調子次第という考え方が一般的であった・・・)
一歩間違えれば翌年クビという事も考えられる危険な賭けは大成功。
清川の左打者封じは、ワンポイント・リリーフ(ここぞの場面に打席に立つ左打者の時に登板。その一人を抑えたら降板というリリーフ)として注目されるようになり、今では当たり前の起用方法として定着しています。
1991年、金銭トレードで近鉄バファローズに移籍。1996年には自身最多タイとなる44試合に登板。
反面、この年のイニング数は18.1(打者77名)ですから、試合毎に1~2名の打者を抑えたら仕事終了という事になります。 

1998年、広島に復帰しますが、わずか9試合(打者13名)に登板したのみ。 オフに引退。

清川の功績は、中継ぎ投手の存在を世間に認めさせた事及び、更新時の査定にも中継ぎの正当なる評価をもちこんだ事。 これはインヘリテッド率という方法で、自分の投球で本塁に返した走者の数を、前の投手が残した走者の数で割るというもの。 

現在のプロ野球は完全なる投手分業制ですが、今に行きつくまでに、どれだけ先輩たちの苦労や努力があったのか・・。 こういった側面を球団や指導者は、若手たちに教えて(伝えて)いくべきだと思います。

 = 通算成績 =
 13勝  10敗  0ホールド  12セーブ  375奪三振  防御率2.94

伝説のプロレスラー  レジー・ベネット

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アマゾネス風の大柄な外人女性が水しぶきを立てながらポーズを決め、「ダッダーン!ボヨヨン ボヨヨン ・・」 なるピップフジモトのコマーシャルが流れていたのが1991年。 これはピップの販売した滋養強壮ドリンク ”ダダン” をイメージしたものですが、当時、あまりのインパクトに日本中で大ウケ。 
胸(おっぱい)を振りながら 「ボヨヨン ボヨヨン 」 とふざけるギャルが続出。 ついには流行語大賞にノミネートされるに至りました。 (他にも、「ダッダーン、プルプルプル ・・・ 」 バージョン有り。 振付はポール牧。)

この大柄な外人女性こそが、女子プロレスラーのレジー・ベネット。
ボディ・ビルやパワー・リフティングで数々の優勝をした事から映画 「グラント」 に出演。 マンド・ゲレロと出会いプロレス入り。 アメリカの女子プロレス団体LPWAに所属し、「ビッグ・モー」 を名乗り、体重45kgのシェリル・ルーサーが 「リトル・モー」 と名乗ってコンビ結成。 100kg と 45kg の凸凹コンビとして売れっ子レスラーに成長。そんな彼女に目をつけたのがピップフジモト。 新発売の栄養ドリンクが、アマゾン原産ムイラブアマ配合の為、原始的な衣装と舞台を用意させ、突然水中から飛び出すというアクションを採用。 レジー扮するアマゾネスのインパクトと日本人ウケする 「ボヨヨン」 なる台詞は大当たりします。 (注訳・・当時はおっぱいの事をボインと言っていた)

そうなると、今度はレジーをめぐって日本の女子プロレス団体が奪い合いを開始。
まずはFMWが獲得に成功。 ジーパンに土木用ヘルメット着用のスタイルで入場したり、デスマッチにも参戦したりと活躍。ついには老舗プロレス団体である全日本女子が獲得に動きますが、横からさらっていったのがジャパン女子プロ。 (飛行機はビジネスクラス、ギャラも破格な条件だったとの事)
ところがジャパン女子はその後解散。 たった1度の来日で行き場を失ったレジーは失業の目に遭い、カジノの用心棒やブレッド・レイガンズ道場でコーチをしたりの日々。
全日本女子(松永会長)との和解が成立して、再び日本マットに帰ってきたのが1994年。

全日本女子では、IWA世界女子シングルやオールパシフィック王者に輝く活躍を見せ人気を博しますが、同団体が経営難に陥った事から解雇となり、1997年、アルシオン旗揚げに参加。 しかし不信感等のいざこざもあってフリーに転向。 再び全日本女子やJWP女子のマットで試合を行います。

2000年、日本人ミュージシャンと結婚を機に、翌2001年3月4日 豊田真奈美戦を最後に引退。
しかし・・ この幸せは長続きせずやがて離婚・・・。 アメリカに戻り、引っ越屋で働いたり、ホームセンターで働いたりしながら生計を立てているようです。

レジーにとって、日本は天国なのか、地獄なのか・・・。
もしフジモトのコマーシャルに出演しなければ、日本に来る事無く人生を歩まれたわけで・・・。
1961年1月生まれですから、現在55歳。(H28・3時点) 2006年頃には再婚する話もあったそうなので、幸せになっていると嬉しいのですが・・・。

伝説のプロレスラー 若松 市政

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1984年(昭和59年)8月24日の新日本プロレス・後楽園ホールに登場したストロング・マシーン。
その横には、奇妙な服装にサングラス姿の男が、拡声器をもってワーワー大騒ぎ・・・。 
当時、こういったギミック系は日本人に馴染みがなく、私自身、なんのことやらよくわからなかった記憶がありますが、ようは将軍KYワカマツという悪のマネージャーに操られたマシーンが、新日本プロレスのレスラーを退治にやってきた・・・ という設定。(試合後のインタビューでもマシーンは、”ギギギ・・ガガガ・・” と答えています)

真剣勝負を好む日本人・・・ それも強さ(ストロング)と過激さを求めて新日本プロレスを応援(支持)する熱烈ファンにとって、これら架空のギミックが受け入れられるはずもなく、ワカマツが騒ぎ立てる毎にブーイングの嵐。
ところが、それに合わせるかの如く、マシーンは2号・・ 3号・・ と分裂し、最終的には4号にまで拡大。 
体型が似ているマシーン達がかわるがわるリングに入ると、瞬時に見分ける事ができず、それが無性に腹が立ったりつまらなかったり。 アンドレまでが仲間に加わって「謎のジャイアント・マシーン」 となると、もはやシラケムード。
当時実況担当だった古館伊知郎は、ワカマツの事を 「悪の羊飼い」 と呼び、マシーン軍団の事を 「暗黒増殖集団」 とか 「戦う金太郎飴軍団」 と面白ろ可笑しく形容。 これらも今考えれば、昭和らしいと言えば昭和・・・。

こういったファンの憎悪心理を揺さぶり、安価な資金(外人レスラーを高額だして呼ばなくても、身近なレスラーに覆面つけて出場させばよい)で話題を売り出す方法は、その後も 「海賊男」 として繰り返されますが、二匹目のドジョウとなるはずもなく大失敗。 このあたりから新日本の迷走が始まっていきます。

若松市政は国際プロレス出身のレスラー。 身長181cm 体重105kg とレスラーとしては小柄。
元々は電気技師として一般企業に就職していましたが、30歳の頃に国際プロレスの裏方(リング配送や設置、営業等)として採用され、時にはレスラーとしてリングに立つ日々。
国際崩壊後、自費でカナダに渡りレスラー修行をした際、当時のアメリカマットでは当たり前となっていた 「マネージャー」 に着目し転向。 以後、幾つものレスラーの悪役マネージャーとして活躍?した後、1984年、将軍KYワカマツとして、マシーン軍団を操る総帥として大暴れ(っというか、独りで大騒ぎ)します。
この 「KY」 の意味ですが、最近風なら 「空気読めない」 となりますが、当時、そんな流行語など存在せず。
一説には、カナダにいたKYという悪将軍から模したとも言われますが、後年のインタビューによれば、大恩ある、国際プロレス社長 ” 吉原功 ” のイニシャル の意味も込められているのだとか。

とかく嫌われ者のイメージがある若松ですが、実は人間性に優れ、人の数倍の努力家としても有名です。
国際プロレス時代、裏方から営業、更にはレスラーとしての仕事を黙々と続け、団体が資金繰りに困窮していれば、自身はホテルに泊まらずトラックの中で寝る・・ を繰り返していたとか。 また団体が崩壊危機に接すると、念願だった海外遠征を取りやめて、これらの業務に奔走。 それらを知る方からの信頼は厚く、若松の事を悪く言う人は少ないそうです。
現在74歳(H28・3時点)になられます。 1999年、北海道芦別市の市議会議員に当選。 4期務めるも2015年の統一地方選挙にて落選。

興奮すると迷言の多い事でも有名。
① 「 猪木! てめえの首をへし折るのに3分もいらねえ。 5分で十分だ~ 」
② 「 延長だ、延長! 5分延長させろ! テン・ミニッツだ~ 」

伝説のプロレスラー  東富士 欽壹

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横綱在位20場所 幕内優勝6回 ・・ 178cm 175kg の巨体を活かして一気に寄り切る相撲から、ついた異名は ” 怒濤の寄り身 ” ・・ 第40代横綱 東富士がプロレス入りしたのが昭和30年。(当時33歳)

前年の昭和29年2月、TV中継を利用したプロレス興行は大当り。
2m近い大男コンビ(シャープ兄弟)を、柔道王・木村政彦と組んで退治する力道山の活躍は、戦後、占領軍に対する劣等感を抱いていた日本人に大いにウケ、街頭テレビには2万を越える大観衆が・・・。
一夜にして力道山は日本一の大スターとなり、全国どこに行っても満員御礼。 第一次プロレスブームが訪れます。

ところが、当時のプロレス興行とは、全国に散らばる興行師の ”買い・売り” あって存在するもの。
更に日本プロレス協会は発足にあたり、財界著名人や反勢力団体等の支援(投資)を受けており、主な要職は全て牛耳られ、いくら儲かってもスターである力道山の懐に入る金額は微々たるもの。
これに関して力道山が興行利益の分配に対し、「身体を張って闘っているワシの分があまりに少ない」と言い出したものだから大もめ状態。 ついには 「朝鮮人が日本人を疑似して文句を言うとは許せん」 となり、純粋な日本人チャンピオンを柱に、プロレス興行を立て直そうと、力道山と同じ処遇を約束され入団してきたのが東富士でした。(東富士は生粋の江戸っ子横綱として人気が高かった上、見た目がやさしく ”気が優しくて力持ち” という日本人好み力士でもあったので、気が荒く粗暴な力道山の入れ替えには最適だったと言われています。)

プロレス入りして2ヶ月後には、早くも力道山とのタッグでハワイ・タッグ王者に君臨させた協会役員たちの行動に対し力道山は、昭和30年夏のシリーズにおいて、狂える巨像 ”ジェス・オルテガ” と東富士をシングルで戦わせ潰しにかかります。 予想通り東富士が一方的にやられる中、見かねたように現れカラテチョップでオルテガを追い払った力道山に観衆は大喝采。 暴走する力道山を抑えるはずの東富士が、逆に力道山の人気を高める結果となった事から、東富士の実力は疑われ、人気が出ないまま引き立て役に転落。

そんな折、力道山はプロレス興行には「世界」の名がつくベルトが必要だと考え、儲けた資金をはたいてWWAから世界タイトル興業権を買ってしまった事から資金がなくなった日本プロレスは混走状態に。 
ついには所属レスラーのギャラ遅れが生じるにあたり、某レスラーがアメリカにいる力道山に対して 「朝鮮人である事を世間にバラし、この問題を国会にて論じていただく」 といった手紙を送った事からクーデター事件勃発。 その窓口に利用されたのが東富士だった事もあり、力道山の恨みは相当なもので、昭和32年に日本プロレス役員の一掃を機に完全オーナーとなった力道山は東富士いびりを開始。それを表面化させない態度が今度はクーデター派に、「東富士と力道山はつるんでいる」との疑念を抱かせる結果となり、行き場を失った東富士は、わずか4年でプロレス界を去って行きます。

戦後のプロレス騒動からも、当時の世相が伝わってきます。
近年、「東富士は力道山の踏み台にされた元・横綱」とか、「力道山に騙された悲劇の横綱」とか言われているみたいですが、元々二人は仲が良く、力道山が親方と喧嘩をして髷切りをした際、相撲協会復帰に動いてくれた唯一の力士が東富士。(結果はだめでしたが・・)
そんな関係から東富士の優勝パレードでは、力道山が車を手配する等の支援を行っています。(これが優勝パレードの始まりと言われます)
そのあたりやプロレス入りの経緯を考えれば、東富士はプロレス収入を我物にしようとした当時の役員や反社会勢力者に操られ捨てられた悲劇のヒーローのように思えます。

伝説のプロレスラー  山崎 五紀

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1980年代、立野記代とのコンビ ” JBエンジェルス ” で活躍した山崎五紀。
当初は ” フレッシュ・コンビ ” なるタッグ名で売り出され、1986年(昭和61年)1月5日 後楽園ホール において、当時大人気だったクラッシュ・ギャルズを破り、第80代 WWWA世界女子タッグ王座を奪取。 
絶対王者を破った衝撃は世間を驚かせ、ついには少年サンデーのグラビアを飾った程の人気ぶり。
これを機に、コンビ名を ” ジャンピング・ボンバー・エンジェルス ” に変更。 
以後、ワンパターンな抗争を避ける目的もあり、クラッシュ・ギャルズと共に、極悪同盟との抗争を行わせるという ”松永手法” は大当たり。 ソニーからレコードまで発売。
(但し、タイトルは1986年3月20日 大阪城ホール大会、クラッシュ・ギャルズとのリターンマッチに敗れ、短期間で王者転落しています。)

必殺技は数々の空中殺法。 美少女コンビとして売り出していただけに、「美女が舞い、蜂のように刺す」 と形容された合体攻撃は女子に限らず多くの男性ファンも獲得。 特に立野記代は ” 女子プロレスの聖子ちゃん ” なる異名までもっていました。

1987年(昭和62年)にはアメリカ遠征を開始。 WWF主催のメーンエベンターにも抜擢される人気を博し、1988年1月 WWF世界女子タッグ王座を奪取するという快挙。 
驚くべき事に、あの力道山すら憧れたというプロレスの聖地 ” マジソン・スクエア・ガーデン ” にも登場しています。

元々山崎はデビル軍団の一員であり、ヒール出身だった分、ラフファイトにも対応できましたが、身長165cm 60kgという痩体型。 立野の方が体重はあるも、どうしても大型ヒール相手だと攻め込まれてしまいます。 ところがファンとは残酷かつ不思議。 初々しい少女体型の二人には、かつてのミミ萩原の面影を求めるのでしょうか。

そんな人気のJBエンジェルスも、1989年5月14日 山崎の引退(1回目)をもって解散。
山崎はジャパン女子プロレスで現役復帰しますが、ミスター女子プロレスこと神取忍に敗れ再度引退。
結婚して現在はアメリカ在住、夫婦でレストラン経営だとか。一方の立野はいまだに独身の模様。 
人気面では立野リードと思われがちですが、試合前のコールを観る限り、女性ファンの多さは山崎。 
山崎には、なんとなく応援したくなるムードがありました。 

激シブの海 宇和島ライトジギング

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平成28年3月26日(土) 晴れ 波1.0m
西海 中潮  満潮8:24 20:24 干潮2:24 14:24

今季初の西海ジギング釣行ですが、数日前から寒気が流れ込み先日までは大シケ。本日は降水確率そこ0%ながら、気温は最高でも13℃という厳しい状況。 今回のメンバーは友人Oさんと中学教員Nさん。 新聞の釣り情報でも釣果があがっていない事から最悪の事を考えて、ジグの他、ワーム~ゴンク(餌)まで持ち寄り、大物~小物まで、”なんでもいいから釣ろう” 作戦。
6時港着。 湾奥にある港は無風ながら、沖は白波が立ち、とても波予報1.0mの状況ではない最悪状況。 また水温も海中に手を入れたら即座に冷たさを感じる程低く、魚の活性が気になるところ。
(それでも湾内に20cmクラスのアジ群れがハマチに追われて逃げ込んでおり、時合次第ではヒットするだろうという気持ちを起こさせてくれましたが・・・)

6:45に出港し、まずは湾沖の浅瀬周辺から開始。 高波・突風が酷く、Oさん手製のシーアンカーを打ってなんとか釣りになるという状況下、浅瀬から深場にかけて流しますがベイト反応すらなし。 早々に見切りをつけて湾横のサーフ(砂浜)や沈み根周辺を移動しますが反応なし。 8:20、潮止まりに合わせ、沖合の小島に移るも状況変わらず。 その後、ポイントを移動しながらハタの実績ポイントまでたどり着きますが、一段と波・突風ともに酷くなり、全く釣りにならないまま、昼過ぎには港近くに帰る有様。 
餌釣りに切り替え、浅場に移動し、養殖筏から逃げた脱走鯛やカサゴを狙いますが、餌にすら全く反応なし。 結局夕方4時まで粘りましたが、まともな魚は25cm~30cmのカサゴ3匹のみという散々な極貧釣果。

昨年までの入れ食い状態を知っているだけに悪夢のような釣行となりましたが、時期的には一番厳しい時であり、仕方がないってところです。 
ただ今年は異常気象(正月は半袖でも過ごせる暖冬。3月は真冬並みの寒さ)でもあり、沖縄では雪が降り、海水温の低下で仮死状態になった魚が打ち上げられたニュースが話題になりました。
事実、本日の水温は、とても3月とは思えない低さ。 今年は海の回復に時間がかかるかもしれません。
次回の釣行は、4月中止で5月開始を考えています。

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ナイスサイズのカサゴながら、餌釣りをしても反応薄し。 こんな展開の釣りは初めてです。
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