世の中には変わった男がいるものですが、この男くらい変わった男も珍しい。
恵まれた体格を活かして横綱にまでなりながら、わずか3場所で廃業。 それも、”ちゃんこ鍋が不味い” と怒り、女将さんを押し飛ばして部屋を脱走。 ホテルに立てこもり、説得にきた者も追い返す我がままぶり。
廃業後は、「プロレスだけはやりません!」 と言っておきながら、新日本プロレスよりオファーを受けるとコロッと態度をかえ入団。
1990年2月10日、クラッシャー・バンバン・ビガロ戦でデビューという厚遇を受けながら、場違いな高飛車パフォーマンスで失笑を買い、以後も単調で内容のない試合を繰り返すものだからブーイングの嵐。
練習嫌いで受け身が苦手。 ブレーンバスターをかけられた際、恐怖心から受け身をとり損ねて怪我を負い、以後、「あっちが痛い」「こっちが痛い」と我がまま放題、怠け放題。 ついには試合を独断欠場する有様。
現場責任者だった長州が、「練習しない奴は使わない」と発言するや逆ギレ。 「勝負して負けたら言う事をきく。怖いのか? この朝鮮人野郎!」 と民族差別発言を発し、結果、新日本プロレスを追放される事に・・・。
そんな北尾が、相撲の先輩である天龍を頼った事で振興団体SWSに参戦。
少しは大人になったかと思えば、ジョン・テンタ戦において、レフリー暴行で反則敗けとなるやブチ切れ!
試合後マイクをもち、「八百長野郎!この野郎、八百長ばかりやりやがって!」 と怒りまくり、プロレス業界のタブー発言を連発するという暴挙。 これによりSWSも解雇・・・。
その後、「やりたい事はやり遂げた!」と強がった挙句、「スポーツ冒険家」 だの 「ナイフ評論家」 だのと、わけのわからない職?を転々。 そして、今度は総合格闘家に参戦。
1992年5月8日 横浜アリーナ大会で山崎一夫に勝利するや、「決着のついた奴とはやらない。今度はもっと強い奴が良い!」 と調子にのった高飛車発言で大ヒンシュクを買うも同年10月に、高田延彦と対戦。
当初は時間無制限一本勝負であったが、試合直前になって「北尾の代理人(一説ではヤクザ)」という者が強行して3分5ラウンド制に変更。その他、予定されていた流れ(筋書きがあったらしい)に文句を繰り返した結果、3Rに高田のハイキックを顔面に受けKO負け。
(調子にのって高田に”好きなだけキックをどうぞ”とチャカした報復とも、たまたま急所にキックが決まった為とも言われていますが、高田と北尾の言い分が違っていて、真相は謎)
評判ガタオチの中、SWS時代、あれだけ迷惑をかけた天龍を訪ねていきWARに居座るふてぶてしさ。
幾つもの団体を渡り歩き、1998年5月には全日本プロレスに参戦し、田上とのシングルが組まれるも、またも直前になり、「やりたい事はやり遂げた!」と現役引退。
引退後は、相撲時代に前代未聞のトラブルを起こし脱走・廃業した立浪部屋に、相撲アドバイザーとして復帰するのですから、義理も恩も恥も糞もない男とは、このような人間を言うのでしょう。(それもコアマガジン発行の暴露本によると、現在は行方不明らしい)
とにかく言う事、なす事、子供と一緒。ジャックナイフ収集の他、エアガン遊びが大好きで、相撲時代には弟子を撃っては遊ぶは、プロレス入り後も後輩レスラーにむかって 「パンパン・・ おい!お前、今俺に撃たれたんだから死ねよ!」とはしゃいだり。他にも、ファミコンをして遊んだとイジメ(暴力)たり。 そのくせ、横綱時代の ”ちゃんこ鍋不味い事件” での釈明では、「私程、弟子を思う横綱はいない。立浪親方は古いタイプの人間で、弟子にも理不尽な事をさせるので、なんとかしようとするうちに騒動になってしまった。女将を突き飛ばしてはいない。あれは出て行こうとした際に、振り払っただけ。私はホテルに閉じこもりながら、親方と和解するつもりでいたのだが、女将が先に警察に連絡してしまって、廃業(一方的)にさせられてしまった。けっして相撲が嫌いでやめたのではない・・」ですから・・・。
甘やかされ育ち、相撲時代から「我慢」を知らずに出世。(嫌な事があると、「家に帰らさせていただいます」と言っては周りを困らせる常習犯)
人間性に欠けている事は有名にもかかわらず、優勝経験なしでの横綱昇進をさせてしまった相撲界の責任は重いですね。またそんなトラブル男を引っ張ってしまったプロレス界。
お互いの世界、北尾によって受けた損害は莫大なものとなって今に残ります。