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伝説のプロ野球選手  芝池 博明

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1軍活躍期間は8年間。 その間に、近鉄 → 太平洋 → 近鉄 → 中日 と渡り歩き、通算11勝(13敗)。
プロ野球では名選手と言い難い芝池ですが、プロ入り前の戦績はなかなかのもの。 特に大学時代の活躍は、今でも専修大学において伝説化しているそうで、そういった意味では ”隠れた伝説の名選手” といえそうです。

兵庫県の名門・滝川高校出身。1964年(昭和39年)、夏の甲子園大会地方予選の決勝は、滝川(芝池) VS 育英(鈴木) の対決となり注目されます。 右・下手投げの芝池に対して、左・上手投げの本格派・鈴木啓示の投げ合いは、1-0で滝川勝利。 この完封勝利で芝池は、予選6試合完封という記録を樹立。 第46回 夏の甲子園大会に出場します。

1回戦の相手は、倉橋(南海ー大洋)、加藤俊(サンケイ・他)を擁する仙台育英でしたが、これまた1-0で完封勝利。 結局は二回戦で水谷実雄(広島・他)を擁する宮崎商の前に1-4で敗退するも、怪腕投手として多数のプロ球団からオファーが。 しかし本人は大学を希望し、専修大学に進学。

=東都大学リーグでの活躍=
① 1年生から主力投手となり、春8勝 秋7勝 を挙げ、春秋季連続優勝に貢献した。
② 全日本大学野球選手権では、準決勝で東海大学を相手に完全試合を達成。(この年優勝)
③ 4年間での登板87試合、41勝 ともにリーグ最高記録である。
④ 最高殊勲選手(MVP)2回の他、最優秀投手賞1回 ベストナイン1回 に選ばれている。

1968年(昭和43年)オフのドラフト会議では、近鉄が5位指名。
これだけの投手が下位指名となった理由が、「大学時代の酷使(投げ過ぎ)」とは皮肉な話。
しかし、結果的には8年間と短命で、通算11勝だったのですからスカウト達の眼力が上回ったという事なのでしょう。 江川にも言える事ですが、高校卒業後にプロに行っていたら、新人王くらいのタイトルは狙えた逸材だと思います。 反面、専修大学での華々しい記録は消滅するわけですが・・・。

= 通算成績 =
11勝  13敗  0ホールド  8セーブ  159奪三振  防御率3.34

伝説のプロ野球選手  リッチ・シェーン

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1975年(昭和50年)、” セ・リーグのお荷物球団 ” と言われ、一時は解散の危機にもあった広島カープがリーグ初優勝。 池谷、外木場、若生、金城、佐伯 といった豊富な先発陣に加え、リッチ・シェーンとゲイル・ポプキンスの加入で打線に幅ができた事が勝利の要因とも言われます。

新監督に就任したジョー・ルーツがまず取り組んだのは、クリーンナップ以降の打線をいかにして線にするかという問題だったと言われています。 
当時の野球では「ライパチ」という言葉が使われていたように、一番打球が飛んでこない上に、打順が一番まわってこない(9番=投手だったので野手として)ライトの8番打者を軽視する考え方があり、その前を打つ7番を含めた7~9番は、チームの人数足しのような扱いが見られました。 
しかしルーツは、下位打線が打たなければ1イニングを無駄にするだけと改革に着手。 また得点力アップのキーマンは6番打者であると語り、一発はなくとも確実にランナーを返す打撃のできる選手起用を考えました。
その結果、メジャーで8年間活躍し、1972年には、134試合に出場 打率300 8本塁打 66打点 の成績を残したアベレージヒッター ” リッチ・シェインブルーム(シェーン) ” を6番にすえ、パンチ力のあるポプキンスを中軸に加える補強を行ったところ大成功。 当時の外国人枠2名(現在は4名)という規定を目いっぱい使ったナイス補強(むやみに高い金で長距離打者を獲得せず、安価ながらチーム事情に応じた選手を補強した)として、今でもこの二人の活躍は伝説化しています。

ただ、何分にも異国の方。 習慣から考え方まで日本人とは正反対。
ポプキンスはメジャー選手でありながら、引退後は医師になるという目標をもち、医学の猛勉強。 休日には広島大学医学部に通ったり医学本を読み漁る変わりダネ。 煙草を吸う同僚を見つけて、「その煙が運動能力を14%低下させる」 と注意した事もあるとか。
一方のシェーンはパチンコにはまり、自宅にパチンコ台を設置した程の親日家で、日本語にも取り組み、選手や周りとのコミュニケーションを図る等、後のクロマティのような姿勢でファンからの共感を得られます。
反面、初優勝目前の大事な9月14日の試合(巨人戦)を、宗教理由でボイコット(ユダヤ教では、9月14日に働いてはいけない)する事も。
そんな二人の事情や性格を理解し、巧く利用したのが、ルーツ解任後の監督となった古葉竹識でした。

この年、シェーンは6番打者として、打率281 13本塁打 56打点 と期待通りの働きを見せ残留。 1976年は打率307 20本塁打 62打点 と前年以上の活躍を見せます。(但し守備難がありこの年で退団)

1942年11月5日生まれですから、現在73歳(H28・3時点)になられます。
身長185.4cm 体重82kg。 今でも昭和50年時の事を覚えておられるファンからは、ポプキンスと並んで、伝説の優良助っ人として人気が高い元・選手です。

 = 通算成績 =
 (メジャー)  320安打  13本塁打  127打点  0盗塁  打率263
 MLBオールスター出場1回
 (日本)    233安打  33本塁打  118打点  4盗塁  打率295
 左右打席本塁打2回(日本記録)

冬眠も終わり? ウナギ水槽の水替え

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H28年3月27日(日) 雨 のち 晴れ
本日の松山市は朝方にまとまった雨が降るも、10:00以降は晴天。 気温は低いですが、外での活動くらいは十分にできる状況。 っとなると、そろそろ・・・ と考えていたウナギ水槽の水替えを実行。
今年は1月までの気温が高かった上、2月以降は極端な寒さが続くという異常気象でもあり、2度目の冬を乗り越えたウナギ(名前=デブゴン1号)も自身の粘膜にかぶれた痕が見られる状態で、いまいち活性があがらず。
まだ冬眠時期なのか、もう目覚めの時期なのかすらわからないような動きを繰り返していました。
まあ、活性があがらないのは人間も同じ。 私自身、今年に入って公私ともに力が入りきりません(泣) 左肩が50肩になり、痛みで目が覚める程。 但し先週行った健康診断では、太り過ぎを指摘された以外は異常なし。 もっと暖かくなると、活性もあがるのでしょうが・・・(悩)

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左肩痛の為、いつもより30分以上もかかって水替えを行いました。 デブゴン1号も元気そうでなによりです。

伝説のプロ野球選手  佐野 仙好

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1977年(昭和52年)4月29日 川崎球場における 阪神 VS 大洋 は9回表が終わって7-6で阪神がリード。 その裏、大洋も粘り1アウト1塁と同点のチャンス。 バッターは清水透。 清水の打球はレフトフェンスまで飛ぶ大飛球。 これを左翼手・佐野が好捕 ・・・ した途端フェンスに激突。 ボールをつかんだままうずくまる佐野を見たレフト線審はアウトの判定後、白目をむいて血泡をふく佐野を見てタンカを要請。 ベンチから選手やコーチがかけより大騒ぎに。 ところが、その隙に一塁走者の清水がタッチアップでホームインし同点。 
阪神側とすれば線審が認めた上での重傷選手が発生したのだから、アウト宣告の後は当然ボールデット(一時試合中断)として扱われるべきと主張。 しかし審判団は佐野が捕球後に返球しなかったとして失策とし、大洋の追加点を容認。 納得のいかない吉田監督ともめにもめた結果、提訴する事を条件に試合は再開。 結局、時間切れの引き分けで終了。
ところが、佐野の怪我は頭蓋骨陥没骨折と重傷であり、返球はおろかタイムなどかけられる状態ではなかった事が判明。 失策の記録は訂正され、犠牲フライによる一塁走者の生還に変更。 佐野の名誉が守られたばかりでなく、プロ野球初(唯一)の 「1塁から犠牲フライでホームイン」 という珍事として現在に至ります。

佐野は前橋工業出身。2年生の時、三塁手として1968年(昭和43年)第50回 夏の甲子園大会に出場。
2回戦で智辯学園(奈良)に敗れるも、走攻守そろった選手として評価され中央大学に進学。
期待に応え東都大学リーグにおいて ベストナイン2回 優勝3回 第2回・日米大学野球日本代表等の活躍をみせ、1973年(昭和48年)ドラフト1位で阪神に入団します。

普通、大学卒のドラフト1位といえば即戦力を期待されますが、当時の阪神には売り出し中の掛布がおり、控え三塁手ではもったいないとの声から左翼手に転向。
入団から4年間は1軍と2軍を行き来する控え選手に甘んじながら、5年目の1978年(昭和53年)、シーズン100試合出場を達成。 翌年(1979年)から7年連続100安打以上を放ち、本塁打については1978年以降、9年連続で二桁安打を達成。 意外にも俊足で、1982年には10盗塁をマークしています。

阪神が日本一となり大フィーバーを起こした1985年(昭和60年)、120試合に出場。 108安打 13本塁打 60打点  打率288 と安定した好成績を残し、優勝に貢献。
バース、掛布、岡田、真弓 に次ぐ、「伏兵」 として人気を集めました。

1989年をもって引退。 阪神一筋。 引退時のインタビューでは、「掛布がいたから今がある。同じ三塁手として競ったライバル。あいつがいたから今の俺がある」 とコメント。 掛布も阪神一筋。 どちらも身長174cmと小柄。 当時のプロ野球は、同じチーム内でのライバル関係で切磋琢磨する姿が見られました。

 = 通算成績 =
 1316安打  144本塁打  564打点  45盗塁  打率273
 最多勝利打点王1回  シーズン最多試合出場2回  シーズン最多犠飛3回  

現役のプロ野球選手  伊藤 光

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= 2015年 時点での通算成績 =
337安打  9本塁打  137打点  7盗塁  打率249
ベストナイン1回  ゴールデングラブ賞1回  最優秀バッテリー賞1回(金子)  オールスター出場2回
シーズン最高守備率(捕手)1回

伝説のプロレスラー  アポロ菅原

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1984年(昭和59年)の全日本マットには、長州力をはじめとするジャパン・プロレス軍団がひしめき、連日、長州見たさに大盛況。 初代タイガー・マスクブームの際、新日本営業部長をしていた新間寿氏は 「プロレスブームというよりも、新日本プロレスブームです」 とコメントしたように、一時は新日本が全日本に差をつけていましたが、長州離脱及び全日本入りにより形勢逆転。 外人レスラーの引き抜き合戦も過熱化し、まさにレスリング・ウォー状態。

一見、活性化のようにも思えますが、ジャパンプロレス軍団が全日本入りした事で超迷惑をこうむったのが、それまで全日本を主戦場としていた日本人レスラーたち。 
国際プロレス残党、ジャパンプロレス13名、これにカルガリー・ハリケーンズが加わると、正式な所属レスラーが試合に出られなくなる事態が発生。 この日本人レスラー飽和状態を打破すべく、馬場がとった措置はリストラ。
残念ながら、アポロ菅原もリストラにあった一人です。

国際プロレス末期の1979年(昭和54年)、知り合いからの紹介を受け、三井造船所を退社して国際入り。
身長182cm 体重100kg少々の体格ながら、秋田工時代にはインターハイ準優勝(過去、国体でも少年部で優勝)した事もある実力者で、国際プロレスの ”若手三羽カラス” とまで言われた逸材でしたが入団間もなく国際プロレスが倒産。 1981年(昭和56年)より全日本マットを主戦場としていました。

全日本解雇後、流れついたのが振興団体SWS。
ところが 鈴木みのる との対戦を行った際、全く組み合おうとせず、隙を見てはアッパーパンチを行う等、不可解な展開。結局、途中リング外に降り、レフリーから試合放棄のゴングを鳴らされ大激怒。 これはシュートを仕掛ける鈴木に対し、反撃するアポロへのレフリー対応に不満をもったからとも言われています。
その後も遺恨を残したまま残留しますが、SWS自体が興行団体として未完成だった事もあり崩壊。
以後、インディー中心のジャーニーマン(流れ者)として各団体を渡り歩く事に・・・。

実力派と言われながらプロレスで達成できなかった理由としては、昭和末期の混乱したプロレス界というだけでなく、プロレス自体にイマイチ順応できなかった事が考えられます。

ちなみに秋田工時代の同級生がプロ野球の落合博満だとか。
落合も現役時代は ”オレ流” にこだわり、プロ野球界に正しく順応できていたかは疑問が残ります。(落合の場合は抜群の実績を残す事で、まわりの雑音を消しましたけど)

プロとは ” 卓越した能力を武器に、その世界で飯を食う者 ” を意味します。 その世界で生き延びるにはどうしたらよいのか・・・ アポロの場合は、全体的な個性が弱かったように思います。(実力はあるのですが・・)

伝説のプロレスラー  ウェイン・ブリッジ

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猪木に寝技の特訓を行っていたゴッチは、「丸くなって身体を防御した体勢をとれ!」と指示。
猪木は丸くかがみ完全体の姿勢をとるも、突然 「えっ」と驚き、身を崩したとたん、ゴッチの関節技攻撃を食らいギブアップ。なんとゴッチは丸まって防御する猪木の上にまたがりながら、猪木の肛門に指を入れたのだとか。

この話は、ゴッチ最強説における有名なエピソードですが、鉄人テーズして 「ゴッチは天才ではあるが、勝つためにはえげつない手段でも関係なくやってくる!」 の言葉通り、手段を選ばず、融通の利かないゴッチ・イズムはアメリカマットから煙たがれる存在に。 
その為か・・・ 日本では 「神様」 と呼ばれるゴッチが、アメリカではあまり評価されていないのだとか。 このあたりのプロレス価値観(スタイル)の違いこそが、ヨーロッパ・プロレス(正統派)とアメリカン・プロレス(演技派)との違いのように感じられます。

ゴッチ、ボック、リーガン、ホフマン、ロビンソン・・ といったヨーロッパの強豪は、スープレックスをはじめ、本格的なレスリングの動きを取り入れたリアル性をプロレスに応用。 世界的に名を広めます。
しかし、広いヨーロッパには、まだまだ未知なる強豪が多数。 ウェイン・ブリッジもその一人。

身長188cm 体重102kg。 新日本プロレス草創期にあたる1972年(昭和47年)に初来日。
当時のブッカーだったゴッチらしい選択レスラーであり、アメリカ系の似合う馬場と違って、猪木の良さを引き出すにはヨーロッパ・ストロング系の方がよいだろうというはからいがあったとの事。 事実、ウェインは1974年、NWA認定カナディアン・タッグ王者にもなった実力派でもありました。

この来日によってウェインと新日本のパイプが定着。 1973年(昭和48年)9月の闘魂シリーズにも参戦。
その後、ウェインは伝統ある大英帝国ヘビー王座に就く等の大活躍。 ヨーロッパヘビー王座にも君臨。
人気絶頂の中、新日本の目玉シリーズでもあった ” MSGタッグ・リーグ ” にも、第3回(家庭都合で棄権) 第4回 と参加する程、新日本と親密な関係を保ち、ヨーロッパ修行中であった ” 佐山聡 ” ”前田日明 ” の面倒も見ていたそうです。

今から10年前の某雑誌によると、パブの経営をしている他、英国プロレスOB会筆頭幹事として活躍中だとか。

伝説のプロ野球選手  李 大浩(イ・デホ)

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身長193cm 体重114kg という大型プロレスラー並みの体格をもち、韓国プロ野球時代は2度の三冠王に輝いた李大浩。 「あの体格だから、当たったら飛ぶのは当たり前」 というファンが多いようですが、李の凄さは、あの巨体ながら思いもよらない程の柔軟性(バットコントロール)にあると思っています。

普通、あの手の体格だと、インハイやアウトローの速球に対応が遅れやすいものですが、柔軟性を活かして大抵の球に反応。 その結果、本塁打以上に打率が残せる選手であり、韓国時代は首位打者3回、最多安打王2回、最高出塁率2回 の実績あり。
日本でも4年間の在籍で、150安打 158安打 170安打 144安打 と安打を量産。 2度の3割をマークする等、安打に関しては評判通りの大活躍。 
反面、本塁打数は 24本 24本 19本 31本。 ”アジアを代表する大砲” だと期待された程には達せず。 また初年度の2012年、91打点でいきなり打点王のタイトルを獲得しますが、本塁打不足が原因で数字的にはイマイチな数字。 (1982年に落合博満が32本塁打 99打点 打率325 で三冠王を獲得した際、"数字が足りない” とバッシングされた事は有名。)

これらの事をメジャースカウトが分析した結果、韓国の野球場の狭さが李の活躍に結びついているとの評価となり、日韓でそれなりの活躍をしながらメジャーからの声がかからず。
それでも辛抱強く待ち、2015年オフ、ソフトバンクからの高額再契約を蹴って、マリナーズとマイナー契約。
春先のキャンプでは、なかなか結果が出ず、年齢的(33歳)にも厳しいとの声もあがる中、見事40人枠入りに成功。 このメジャー入りとなったきっかけは、メジャーのスターも驚く守備力の高さだったとは長距離打者としては皮肉な話。 事実、李は韓国時代に4度のゴールデングラブ賞を受賞している守備の達人。 日本でも2度、ベストナインに選ばれています。

= 通算成績 =
(韓国)  1250安打  225本塁打  809打点  9盗塁  打率309
MVP1回  三冠王2回  首位打者3回  本塁打王2回  打点王2回  最高出塁率2回  
最多安打王2回  ゴールデングラブ賞4回  オールスターMVP2回  北京オリンピック韓国代表(2008)
シーズン最多試合3回  シーズン最多得点1回  シーズン最多塁打1回  シーズン最高長打率3回
WBSCプレミア21・ベストナイン1回

(日本)   622安打   98本塁打  348打点  0盗塁  打率293
打点王1回  ベストナイン2回  月間MVP4回  オールスター出場3回  シーズン最多試合2回


現役のプロ野球選手  大谷 翔平

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= 2015年時点の通算成績 =
29勝  9敗  0ホールド  0セーブ  421奪三振  防御率2.72
125安打  18本塁打  68打点  6盗塁  防御率2.45

最多勝1回  最優秀防御率1回  最高勝率1回  月間MVP1回  ベストナイン1回  
札幌ドームMVP1回  最優秀バッテリー賞1回(大野)  ジョージア魂年間大賞1回
ジョージア魂賞1回  シーズン最多完投1回  シーズン最多完封1回  
オールスター出場3回  オールスター敢闘賞1回  日本選手球最速記録(162km)
シーズン二桁勝利・二桁本塁打(日本史上初)

伝説のプロレスラー  中西 学

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昭和が終わる1988年(昭和63年)頃までのプロレスに関しては、小技から大技まで、大抵の技名がわかり、その威力・効力に至るまで解説する事ができましたが、平成となり、個人個人が決めたオリジナル技の多さによって、もはや技の解説はおろか、名前すらわからなくなりました。
それは中西も例外ではなく・・・ 必殺技 「マッケンロー」 「上からドン!」 と聞いて、すぐに全てを理解できる方は、少なくとも昭和プロレスファンにはいないのでは? と思ってしまいます。

マッケンロー = 往年のテニス王者 ”マッケンロー” をヒントに開発されたという、膝裏に行う低空ラリアット。
上からドン! = コーナー2段目からの旋回式ブレーン・チョップ。
マムシの生殺し = キャメルクラッチから相手の首を横に曲げる拷問技。

しかし、どちらの技も原型は 「ラリアット」 だったり 「キャメル・クラッチ」 だったりと昭和の技。
そして、中西と言えば必殺技は 「アルゼンチン・バックブリーカー」 ・・・。

どこか新しく・・・ どこか懐かしく感じる最後のレスラーが ” 中西 学 ” の魅力。

通称は 「野人」。 身長186cm 体重120kg というヘビー体格に、ネイチャーボーイ(野生児)的な雰囲気。
そこから繰り出す昭和モデルの ” 力技 ” の数々。 
高校時代からアマレスで活躍し、強豪・専修大学に進学。 フリースタイル100kg級で全日本選手権3連覇。
当初の就職先は和歌山県・教育庁という変わりダネ。 
そこから新日本プロレス・アマレス部門である 「闘魂クラブ」 を経て、1992年のバルセロナ五輪に出場。 結果は2回戦敗退でしたが、アマレス日本最強男として新日本プロレスに正式入門。
1992年10月13日 東大阪市中央体育館でのデビュー戦が、藤浪とのタッグで、S・S・マシーン&ノートン組だった事からも、いかに新日本が売り出しに期待していたかがわかります。

期待に応え、第6回ヤングライオン杯で永田を破り優勝。 アメリカ武者修行後はIWGPタッグ王者に君臨。(パートナーは小島) 1999年のG1では決勝で武藤をアルゼンチン・バックブリーカーで破り優勝。
ついには第51代 IWGPヘビー級チャンピオンにも君臨。

一日のカロリー摂取量は8500という大食いで、趣味は食べ歩き。 人一倍 ”筋肉量を増やしたい” との願望あるレスラーとの事ながら、脂肪量も増える大食いという矛盾。
野人キャラを売りにする反面、実家は京都でも有名な大農家(お茶農家)であり、体育教員資格をもち、和歌山県庁に勤務した事もあるという矛盾。
こういった矛盾も、中西の魅力なのかもしれません。

現役のプロ野球選手  スコット・マシソン

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 =2015年時点での通算成績=
(メジャー)  1勝   4敗   0ホールド   0セーブ   34奪三振  防御率6.75
(日本)   13勝  16敗  84ホールド  42セーブ  255奪三振  防御率2.30
    最優秀中継ぎ投手1回

伝説のプロレスラー  アジャ・コング

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アフリカ系のハーフだけに、北斗晶の眼にはそう映ったのか・・・? 
ある日、北斗から 「お前の顔って ” アジャ~ ” って感じだな。よし、今日からお前の呼び名は” アジャ” だ 」 と言われたのがきっかけで、同僚たちから 「アジャ」 と呼ばれるようになった宍戸 江利花。
当然ながら、こんなあだ名を喜ぶわけないも、何分にもつけたのが先輩の北斗では逆らう事もできず・・・。
そんな中、無理やり悪役にされたあげく、不本意ながらブル中野の獄門党の一員となった宍戸に目を付けた協会重役は、リングネームに 「ブラック・サンデー」 を用意。 ところが別の重役が、「こいつはアジャという名前があって、本人も気に入っている」 と横やりをいれた為、急きょリングネームが ” ザ・アジャ ” に決定。
その後、” アジャ・宍戸 ” に変更。

アフリカ系の顔立ちをもっと生かす為、体重増加に取り組むと、年間数十kgペースで増加。
キングコングを真似て、胸を叩くというアピールがうけ、リングネームも ” キングコング・アジャ ” に変名。
その後、女性のキングコングという意味で、” クイーンコング・アジャ ” となるも、「名前が長すぎる」 との声があり ” コング・アジャ ” に短名。 すると今度はリングアナから 「 呼びにくい 」 とのクレームがつき、発音しやすい ” アジャ・コング ” に決定。 まさに、リングネーム一つにも歴史あり・・・。

アフリカ系アメリカ人の父と、日本人の間に生まれたハーフ。 
軍人だった父が本国に帰った為、母子家庭となるも、親戚からは疎遠状態(米軍人との婚姻に全員が反対)にあり頼る者もおらず、イジメにあう日々だったとか。
長与千種に憧れ、中学卒業後、全日本女子プロレスに入門。 
身長165cmに対し、入門当時の体重は57~58kg弱と細く、特に売りになる要素はなかったようですが、ブル中野の付人だった関係もあり、獄門党の一員に。(本人は善玉レスラー希望だったそうで不本意だったとの事)
その後は体重の激増と共に、独特の顔立ちとキングコング・キャラの演出がうけて売れっ子に。(きっかけはユニバーサル・プロレスに全日本女子が参加した時、あまりのインパクトに注目を浴びた事だとか)

但し、アジャの場合、その実力も高く、第40代WWWA世界シングル、オール・パシフィック王者、WWWA世界タッグ をはじめ、団体を問わず主なタイトルをすべて総ナメ。 WWFにも出場し、当時の王者を倒す等、世界的にも通用する実力を見せつけました。
ブル中野との金網デスマッチでは、最上段からのギロチン・ドロップを食らったり、盲腸手術後一週間で試合を行い、傷をひろげて大出血したりと、その過激さも最高級。
2015年・竹書房発行 「プロレス最強は誰だ!」 の女子プロレスラー部門において、神取忍と並んでの女子最強レスラーだと紹介されています。

苦労・・苦労・・の人生を懸命に生きた結果、「アジアのキングコングだから、アジャ・コングだ!」 と言われるまでになったアジャ。 これって、猪木が何気なくつけられたアントニオを、幾多もの死闘の末に、真の称号として築きあげた伝説に等しい快挙。 現在は映画やコメディアンでも活躍中。 このまま政治家の世界に・・・ だけは真似ないでほしいです。

夢の中でも自由人 ”お咲希さん”

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平成28年4月6日(水)
現在、春休みの ”お咲希さん” は、ほとんど隠居状態。
毎日、暇を持て余し、今日もママと一緒に近所の散歩を3回もしたのだとか。
私が仕事から帰ると駆け寄ってきて、「桜きれいだった」「ツクシが沢山あった」 との報告は◎ですが、3歳児がまるで俳句の題材が見つかった老人のような口調で話すのですから笑ってしまいます。
そんなこんなで疲れるのか、毎日PM8時には眠気がピーク。 一度寝たら冬眠の熊の如く、朝まで熟睡します。
反面、寝相の悪さも天下一品。 時々、様子を伺うのですが、Wベッドの上を、コロコロと時計回りに転がりながら寝ています。 こんな自由人、大物になるか、小物になるか・・・。

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PM10:30、様子を確認しに行くと、今日もやはり布団を蹴飛ばし横むきに転がっていました。

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とりあえず、フラッシュをたいて記念撮影しますが・・・ フラッシュの光を浴びてもピクリとも動きません。

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PM11:20頃、再度様子を見に行きましたが、向きをかえて転がっていました。当然、フラッシュ撮影しても反応なし。 結局、一緒に寝ている嫁さんが元の場所に運びます・・・。

伝説のプロ野球選手  伊藤 敦規

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1985年(昭和60年)、年間219本ものチーム本塁打を放ち、打力で他チームを圧倒して日本一となった阪神タイガースでしたが、以後、掛布 岡田の低迷によって戦力はガタ落ち。 更にバースが去ると、投打ともに主軸となる選手がいなくなり、長い「暗黒低迷期」 に陥っていきます。
しかし、そんな時だからこそチャンスをものにできる選手が出現するもの事実。
1996年オフに横浜を自由契約となり、阪神にテスト入団を果たした伊藤もその一人。

愛知県知多市出身。名門・中京高校(現・中京大中京)出身。
実家が工務店を経営しており、家業を継ぐ目的も兼ねて福井工業大学に進学。 エースとして北陸大学リーグで活躍し、1984年には全日本大学野球選手権に出場。 同校初となる準決勝進出に貢献。 これが評価され、ロサンゼルス・オリンピックに出場となり、チームは金メダルを獲得。(伊藤は五輪2勝と大活躍) 卒業後、社会人野球の名門・熊谷組を経由して、1987年、阪急よりドラフト1位指名を受け入団します。(阪急最後のドラフト1位選手)

右サイド(アンダースローに近い)から緩急つけた投球と、右打者アウト低目に決まるスライダーを武器に、入団初年度の1988年8月28日 2軍での阪神戦においてノーヒット・ノーランを達成。
1989年、阪急からオリックスにかわると先発~抑えまでを幅広くこなすようになり、1991年=158イニング 1992年=191.2イニング を投げる等、チームの柱に成長しますが、軟投派特有の ”かわすタイプ” だけに被安打も多く、1992年には192被安打(リーグ最多)をあびる等、安定感がいまいち。
1993年以降は出場激減となり、1994年オフ、横浜にトレード移籍。

横浜では先発不足からおこる狭間登板を埋める投手として期待され、移籍初年度から一軍として起用しますが、19試合に登板し、6先発させた結果は1勝2敗 防御率6.50 と散々。 翌年は2軍暮らしとなり、オフに自由契約選手通告。 野球を諦めきれない伊藤が選んだ道は、憧れだったという阪神に、一か八かのテスト入団。
(すでに34歳となっており、周囲からは ”無駄だからやめておけ” と言われていたとの事。)

戦力の整った時ならば、まず採用される事はなかったろう投手が、
①万年最下位に甘んじる状態にあり、手薄な投手陣事情にあった事
②吉田監督→野村監督(戦力外の選手を引き取っては再度開花させることで、野村再生工場と言われた)にあたった事
というラッキー事情もからんで採用となるや、入団以降5年連続50試合登板以上という大車輪活躍。
(97年=60試合 98年=50試合 99年=59試合 00年=71試合 01年=52試合)
特に2000年はリーグ最多となる71登板 3勝 1敗 防御率1.86 と安定した好成績をあげ、「中継ぎの重要性を再認識させるきっかけとなった投手」 とまで言われました。

2002年も20試合登板しますが、高齢かつ酷使からくる腰痛等も重なり成績は低迷。オフに引退。
けっして目立った存在ではありませんが、隠れた名投手であった事は間違いないと思います。

= 通算成績 =
56勝  51敗  0ホールド  11セーブ  579奪三振  防御率3.76
シーズン最多登板1回  オールスター出場1回  シーズン最多被安打1回  JA全農GoGo賞1回(救援)
シーズン最多ボーク2回  シーズン最多与死球1回  シーズン最多敬遠投球2回 

伝説のプロ野球選手  渡辺 俊介

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立位体前屈25cm。 股割状態で身体を前に倒すと、上半身全てが接地するという驚異の柔らかさ。
そんな身体能力があってこそ、地上3cmのところで球をリリースするという、独特のアンダースローが生まれたのでしょう。 見る者誰もが魅了されるサブマリン・・・ 渡辺にはそんな華がありました。

元祖・サブマリンの山田久志は、全盛期に140km半ばの速球を投げ、若手の頃は速球でぐいぐい押すタイプだったのに比べ、渡辺の場合は最速132km 平均20km前後という遅球を軸に、シンカーや90km台のカーブ、スライダー、チェンジアップといった変化球主体で、かわす投球術が武器。 
但し、アンダースロー特有のジャイロ(下から上に浮き上がる)を操る面に関しては、山田以上とも言われ、球筋を見極める事が難しく、本人も 「球速よりも、いかに打ちにくさ(タイミングを外す)を追及できるか」 を信条にしていると語っています。
その結果、「高低」 「左右」 + 緩急という 「前後」 が加わり、遅球でありながら奪三振を奪える投手としての評価を受け、2006年、2009年のWBC日本代表に選出。 世界一連覇に貢献しました。
(注訳・・・一時期、140km台の速球を目指した時期もあるように、実は球速に対する思い入れは強い模様)

国学院栃木高校時代は控え投手。(小関竜也がエース&4番だった)
国学院大学 → 新日鐵君津 と進むうちに制球力が安定し、都市対抗で好投。 シドニー・オリンピック代表に選出される程の投手に成長。 2000年のドラフト会議において、ロッテより4位指名をうけ入団します。

入団から2年間は伸び悩みますが、3年目の2003年に140イニングを投げ、9勝 4敗 と結果を残した事で
ローテ入り。 2004年 12勝 6敗 の好成績でロッテのエース格に成長すると、翌2005年は 15勝 4敗 防御率2.17 という活躍。 ロッテ31年ぶりの日本一に貢献。 独特の投球術が話題となり、パ・リーグを代表する投手としてオールスターにも2年連続で出場しました。

2013年をもってメジャー挑戦するも昇格とならず。 以後、アメリカ独立リーグでプレーしますが、2015年をもって帰国。 古巣の社会人チームに、コーチ兼任選手(事実上コーチ)として復帰。

= 通算成績 =
87勝  82敗  1ホールド  0セーブ  846奪三振  防御率3.65
最優秀バッテリー賞1回(里崎)  日本シリーズ優秀選手賞1回  オールスター出場2回
日本シリーズ初登板初完封(史上11人目)  日本シリーズ初登板初完封・無四球(史上3人目)
WBC日本代表(2006年 2009年)  シーズン最高無四球1回  シーズン最高完封1回
栃木県民栄誉賞  千葉市市民栄誉賞

気分は小マダム? 小お姫様? お咲希さん

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平成28年4月9日(土) 晴れ
本日の西日本は晴天につつまれ春らしい陽気。
春休みとなり、毎日暇で困っている ”お咲希さん” ほとんど隠居状態。
4月に入り仕事が一段と多忙。 あまり遊んでやれなかった事もあり、今日は親子3人で松山城まで桜見物に行きました。 (嫁さんは庭に作っている ”ミニ畑” 作業がしたくて拒否ぎみでしたが・・・)
久しぶりに市内電車やロープーウェイに乗りましたが、普段仕事で走る道も、乗り物がかわれば違って感じるから不思議です。 当然ながら ”お咲希さん” は大はしゃぎ・・・ かと思えばそうでもなく緊張気味。
本丸まで着いたら目ざとくソフトクリーム屋さんを見つけて、猛烈にアピール。
結局休憩となり、城下町を眺めながら、「伊予柑アイス」 と 「期間限定さくらソフト」 を二刀流食い。
世が世だから許されますが、一般庶民の3歳児が、お城本丸に居座り城下を眺めながら、殿様も食べたことのないソフトクリームを食す・・・。 
江戸時代の歴代殿様たち、そんな時代が来るとは、夢にも思わなかった事でしょうね(苦笑)

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欲張りな ”お咲希さん” は、ママのソフトクリームもとりあげ、城下を眺めながら二刀流。

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伝説のプロ野球選手  下柳 剛

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「球界一の犬好き」 と言われ、無精髭や野暮ったさがやたらと似合う下柳。
阪神生え抜きではないにもかかわらず引退後もその人気は衰える事がなく、阪神ファンから絶大なる支持を得ています。

長崎・瓊浦高校→八幡大学中退(現・九州国際大学)と、決してエリートではなかった下柳が、俄然注目されたのが新日鐵君津時代における 第59回都市対抗野球大会 での好投から。 とにかくタフな投手で、連投を繰り返しても問題なし。 この大会でも予選から全てを投げ切りながらケロっとしていたという逸話が残っています。
阪神時代、「のらり くらり投法」 と言われ、軟投派の代表扱いをされた下柳ですが、この頃は剛速球投手として活躍しており、150km近い速球を投げるタフネス左腕として、スカウトの注目を集めます。

1989年、大阪に本拠地をおく南海ホークスが、ダイエーに買収され、西鉄以来の九州球団として移ってきた事で、福岡のみならず九州中の野球ファンは熱狂。 その影響もあり、ダイエーはドラフト会議において、九州出身又は、九州に馴染のある者を優先的に獲得する方針を打ち立てており、長崎出身の下柳は当然ながらドラフト候補に浮上。 1990年、ドラフト4位指名をうけ入団。

初年度はわずか1試合のみ登板。2/3 イニングを投げ4失点と結果を残せず、翌年は一軍登板なしという崖っぷち状況。 そんな中でも強運だったのが、当時のダイエーはまだ戦力が整っておらずコマ不足だった事。 
1993年、50試合に登板(先発10試合)し、98イニング 4勝(8敗)の成績を残すと、翌1994年は、この年リーグ最多登板となる62試合登板(先発1試合)を果たし 11勝 5敗 4セーブ と活躍。
105.2イニング = 11勝が物語るように、リリーフで2~3イニングを投げる事も多く、その間にチームが逆転しての勝利多々。 勝ち星を拾える抑えの切り札としてブレークします。

ところが・・1995年、車を民家の塀に当て負傷するという自損事故を起こし長期脱落。 これが元となりオフに日本ハムへトレード移籍。
日本ハムでもタフネス・リリーフは健在。 移籍2年目の1997年にはリリーフ専門で、規定投球数を上回る147イニングに登板。 9勝 4敗 セーブなしという珍記録を達成したばかりが、当時216打席無三振であったイチローから奪三振を奪った事で一躍有名選手の仲間入り。 1998年にはリーグ最多登板となる66試合登板。

2003年、前年不調だった事もあり、阪神にトレードされると先発要員として10勝をマーク。
タフネスを売りにしたこれまでの投球術を変え、5~6回を軟投で切り抜けリリーフにスイッチするスタイルにチェンジした事が成功のもと。
2005年には15勝 3敗 防御率2.99 と活躍しますが、投球イニング132.1が示すように、24試合の先発で完投はわずか1試合のみ。 抑え陣からついたあだ名は 「社長」・・。 (抑えに仕事をくれるという意味を皮肉ったあだ名。) 

2011不調に陥り、オフに戦力外通告を受けるも、2012年、楽天の春季キャンプテストに合格し入団。 しかし結果を残せずオフに二度目の戦力外通告。
2013年春には、ドジャースキャンプに参加しテストを受けますが、最終選考で落選。 その後引退表明。

= 通算成績 =
129勝  106敗  0ホールド  22セーブ  1418奪三振  防御率3.92
最多勝1回  月間MVP2  オールスター出場5回  シーズン最多試合登板2回

現役のプロ野球選手  阿部 慎之助

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=2015年時点での通算成績=
1813安打  361本塁打  1084打点  13盗塁  打率285
MVP1回  首位打者1回  打点王1回  最高出塁率1回  ベストナイン9回  ゴールデングラブ賞4回
日本シリーズMVP1回  日本シリーズ優秀選手賞1回   正力松太郎賞1回  月間MVP6回
オールスター出場10回  オールスターMVP2回  オールスター敢闘賞1回  東京ドームMVP3回
最優秀バッテリー賞6回(上原、高橋尚、グライシンガー、ゴンザレス、内海、菅野) 月間サヨナラ賞1回
JA全農GoGo賞2回  優秀JCB・MEP賞2回  セ・パ交流戦優秀選手賞1回  ジョージア魂賞1回
スピードアップ賞1回  日韓クラブチャンピオンシップMVP1回  報知プロスポーツ大賞3回
日本プロスポーツ大賞1回  WBC日本代表(2009、2013)  シドニー、北京オリンピック日本代表
その他  

伝説のプロレスラー  船木 誠勝

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初代タイガー・マスクに憧れ、中学時代に新日本プロレス入門テストを受けるも失格。 それでも諦めず、高校入学前に再度テストを受け合格。(山本小鉄に直談判しての合格) デビューは15歳11ヶ月であったという船木。
幼少時に見たブルース・リーの影響で、小学生の時には格闘技に興味をもっていたという根っからの格闘好きは、新日本プロレスから第二次UWFを経由し、藤原組に参戦。 そして完全実力主義を目指すパンクラスを設立。

身長182cm 体重90kg という体格は、ライトヘビー級並み。
通常の観点なら体重増加を目指してヘビー級の道を歩む事が、最強格闘家への道だと思うのですが、無理な体重増加は動きを鈍らし、技のキレを悪くするという論理から控えたのでしょうか?
(この体重に関する考え方は、NWA世界王者時代のテーズも同様な事を語っており、テーズも体重増加には取り組みませんでした。 またゴッチは無駄な筋肉増加は格闘技において、なんの役にも立たないと語っています。)

理想を追い求め、新日本→UWF→藤原組→パンクラス・・・。
格闘家としての強さを探す日々だったそうですが、このような考え方のレスラーが出回ったのも、昭和末期の第一次UWFあたりから。 それまでのプロレスは、強さ=強靭な肉体であり、各自が自身の特色ある動きや技を繰り広げながら、勝負に徹するだけでなく、いかに観客が喜び、満足してくれるのかを念頭に試合を組み立てていたものです。 観客は各レスラーのパフォーマンスに驚き、時に恐怖し(エリックがクローのポーズをとるだけで・・)プロレスの凄さや強さに酔いしれました。 「前座は大技を使ってはいけない」 といった暗黙ルールも、メインに出場する大物レスラーを軸に試合全体が盛り上がる為の演出。 そんなプロレスが 「昭和プロレス」 として切り離されていった分岐点に、パンクラス設立はあったように思います。

なんでもありの実力主義であるパンクラスでは、グローブをつけての顔面パンチもOK。
マウント攻撃やチョーク等、過激度も増す中、試合は 「秒殺」 も多く、従来のプロレスとはかけ離れた完全格闘技。 そんな試合方式に対し世の中の若者たちは、真の強さに酔いしれ、多数が支持したわけですから時代も変わったという事なのでしょう。 (ジャイアント馬場世代に育った私の場合、大男の馬場が巨体で相手を圧倒しながら勝利していくプロレスに、格闘技=プロレスのような感覚をもっていました。 プロレスラーが本気でパンチ、チョークありのセメントをしたら、殺し合いにしかならないと思っていたからこそ、馬場の試合で十分だったわけですが、そんな殺し合いに近い格闘技がもてはやされる時代がくるとは・・・ 想像もつかなかったです。)

当然ながら体格に劣り、格闘技面では未熟さも目立つ船木ですので、試合は勝ったり負けたり。
従来のプロレス感で考えれば、団体設立のエースは絶対勝利者であるべきなのですが、真剣スタイルだけに、この現状が逆ウケ。(八百長なしの真剣勝負として)
2000年5月26日 ”コロシアム2000” でヒクソン・グレイシーにチョーク・スリーパーで敗れ引退表明。(一度目) 2007年に総合格闘技に復帰。 二連敗の後、2008年9月にミノワマンから初勝利。
2009年8月より、全日本プロレスに参戦し、「世界タッグ王者」 「三冠ヘビー級王者」 に輝く等の活躍。

カール・ゴッチを心の師と仰ぐ船木。 某雑誌において、「決して弱音を吐かず、常に強気で孤独にも強い。そんな信念を貫き通した通したゴッチを尊敬している。」 とコメントしています。

ウナギの餌獲りも楽じゃない・・・

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H28年4月16日(土) 晴れ 後 雲
熊本県~大分県では大地震後も数分毎に余震が続き、被害・疲労が拡がっています。
過去の大地震と比べても、その規模の大きさや余震回数は桁違い。その上、断層の交わり方が異質らしく、今後も大地震が発生する確率大なのだとか。 政府は自衛隊2万5千人規模で救出支援を行うと発表。 アメリカ政府にも協力を呼びかけました。 こんな時、なにか手伝う事があれば、私も微々たる手伝いくらいは可能なのですが、今できる事といえば、早く地震がおさまり、被害に遭われた皆様が安心できるよう祈るくらい。 せめてもと思い、ヤフー募金に支援金を入れさせていただきました。 亡くなられた方の御冥福をお祈り申し上げます。

九州が震撼している時、このような呑気話を記事にするのも心苦しいのですが、自宅で飼育しているペット・ウナギの ” デブゴン1号 ” の餌が不足したので、近くの川に行き、餌をすくってきました。
気温24℃に対し、まだ水温は低目。 例年なら1時間で40~50匹はすくえるハヤ(カワムツ)が、今年は姿自体見当たらない?状況。 仕方がないのでウエーダーをつけての魚すくい。 相手も生き物。 簡単にすくえるはずもなく、草陰を ” ガサガサ ” した結果、30分で、ハヤ、カジカ類、エビ を少々ゲット。 ここで持病となっている左肩痛(50肩らしい)が悪化したので終了。 まあ、なんとか一週間程度の餌はキープできました。
足りない分は、近くの釣具屋に行き、ドジョウでも買います。
帰宅後、痛みが激しい左肩を自己マッサージ。(軽運動をすれば、すぐに痛みは治まります) 
50歳にもなってくると、ウナギの餌獲りも楽じゃないです・・・(泣)

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期待を裏切る貧果にがっかり・・・。 これでは熱帯魚店で一匹30円の金魚を買う事になりそうです。

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まだ水温が安定しません。山手という事も理由でしょう。
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