Quantcast
Channel: もぐら
Viewing all 1423 articles
Browse latest View live

伝説のプロ野球選手  金石 昭人

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


400勝投手・金田正一と弟・金田留広の甥にあたる金石昭人。
なんと身長197cm(現役当時は195cmとしていた)。 身長を生かした高低差ある速球とフォークを武器に、広島→日本ハム→巨人と渡り歩き、一軍での実働16年。プロ通算では20年という息の長い投手でした。

PL学園時代から投手。1978年・春はベスト8、1978年・夏は優勝(逆転のPL)という活躍の一方、この時のエースは身長174cmしかない西田真一。
しかし、その隠れた才能に期待した広島が1979年、ドラフト外で獲得します。

長く二軍生活が続く中、初の一軍登板は1982年。僅か2試合 2.2イニングの内容は2失点 防御率6.75。
その後も鳴かず飛ばず状態が続き、いつ解雇されても不思議ではない中、1985年に6勝(9敗) 防御率5.04の成績を残すと、翌1986年に大ブレーク。 
25先発登板 158.0イニングを投げ、5完投 2完封 2無四球 12勝(6敗) 105奪三振 防御率2.68 という好成績をあげ注目されるようになります。
しかし、野球人として恵まれ過ぎた体格が災いしたのか怪我も多く、以後は規定投球回数に達する事無く低迷期が続き、1991年オフに津野浩とトレードで日本ハムに移籍。

すると突然のように好投が増え、移籍一年目の1992年、25先発 183.2イニングを投げ、14勝(12敗) 防御率3,77をマーク。 驚くべきは13完投 1完封 3無四球 という内容。
1990年代に入ると、現在のような投手分担制が確立してきますので、13完投は十分に評価できます。
翌1993年は抑えに回り、32試合 69.0イニングを投げ、9勝1敗13S 防御率2.09 と抜群の安定感。
リリーフながら勝率9割は、当時の抑えが2~3イニングを投げていた事によるもの。 同点又は1点負けているような場面に登板し、残りイニングを完璧に抑えなければできない数字。

1994年 ・・・ 37試合 86イニング 6勝 3敗 18セーブ 防御率2.51
1995年 ・・・ 32試合 35.2イニング 2勝 3敗 25セーブ 防御率2.02
1996年 ・・・ 28試合 25.2イニング 1勝 1敗 20セーブ 防御率2.10

好投は多い反面、1995年頃からイニング数が減り、1997年は先発復帰するも打ち込まれ0勝。
オフに戦力外通告を受ける中、巨人軍の春季キャンプにテスト生として参加し合格。 しかし結果を残せず1998年をもって引退。

妻はバドミントンで有名な陣内貴美子。 婚約時代、陣内の部屋で過ごしていた時、たまたま強盗に遭遇。
刃物をもつ相手にひるむ事なく立ち向かい取り押さえた武勇伝は、新聞にのり話題となりました。
強盗も陣内目的で入ったら、2m近い大男と遭遇とは・・・ 運がない話(笑)

実業家としても成功しているようで、港区と品川区に 「寿司処かねいし」、その他、広島風お好み焼き店や、鉄板焼き店も経営。 野球経験をベースとした著書も出されています。

今でも珍プレー・好プレーに登場する、「敬遠球をクロマティがヒットした」場面。この時、打たれた投手が金石。
守っていて頭上を抜かれた外野手が、PL時代の同僚でエースだった西田真二。 

 = 通算成績 =
 72勝  61敗  0ホールド  80セーブ  610奪三振  防御率3.38
 月間MVP2回  最優秀バッテリー賞1回(田村)  オールスター出場2回

政治家と介護団体によって、介護保険は崩壊する!

$
0
0
日本介護福祉士会が、フジテレビに対し、同局が制作する介護ドラマにおいて、「安月給」や「過酷な現場」の過激描写は、介護人材不足の解消を阻害し、誤解を生じる可能性があるとの観点から 「配慮」 を求めた意見書を送ったというニュースが話題となっているようです。

この件に関して、関係者各自に賛否意見がわかれる事は仕方がない事だと思いますが、私個人的な意見で言えば、特例のような過激描写は謹んでもらいたい反面、低賃金で責任だけ押し付けられる介護職の現状については、もっと世間に知ってもらうべきだと考えます。

介護職を取り巻く現状は、年々悪化の一途をだとっています。
国や地方自治体が高齢者の増加と少子化による税収減をうたい文句に、3年に一度の改正を利用しては、介護報酬の引き下げを繰り返した結果、事業所(経営者)に入る報酬金が低下。 地方の介護職の平均給与は、夜勤を週1回こなしても手取り15万円もない有様。(介護報酬等級があるので、これは一般的な地方における等級外地域の話)
その上で賞与は基本給の2~3倍程度。税を引かれたら手取り20万円も残りません。
昇給は無いに等しく、若干あがった分、高騰していく社会保障費の増額によって赤字。 つまり、入社以来、働いても、働いても安月給は減る一方という現実なのです。

休暇は不規則。週休2日制が増えていますが、連休が望めなかったり、土日出勤の為、家族と過ごす事ができなかったり。もちろん、年末年始もお盆も関係なし。 これに施設なら夜勤がつき、夕方5時頃から翌日9時だの10時だのといったふざけたブラック施設も多数存在します。
その上、責任だけは重く、擦り傷一つでも負わせたら始末書を書かされ、ちょっとした事故でもあれば新聞沙汰。
こんな夢も希望もない介護現場が現実に存在するのです。

「私の職場は、ここまで酷くない!」と言われる方もいるとは思いますが、今の厚生労働省の考え方では、もはや早かれ遅かれ介護保険は崩壊します。 事実、すでに要支援は介護保険から切り捨て、地方自治体の運営に移行させていますし、今後、生活支援(家事)は廃止、要介護1,2といった軽介護者は包括支援センター業務として再編成といった案も出ています。 

また厚生労働省・塩崎氏は、昨年の介護報酬引き下げの際、「特別養護老人ホームがもうけ過ぎ」との指摘から悪改正を起こしておきながら、今回の安倍内閣の3本の矢政策では、「特別養護老人ホームを増やし、50万人待機者支援から介護離職者を防止する」 と方向転換。 まさに政治家たちの思いつきで右往左往されるのが、介護保険の現状です。

本来は、こういった悪改正が行われる際、日本介護福祉士会や社会福祉協議会が署名でもして阻止すべきなのですが、この会自体が何も行動を起こさないフヌケ状態。 それでいて、今回のような時にだけ、「世間に悪評を広めるようなドラマは作らないでくれ」 と嘆願ですから、あきれてものが言えません。

介護職に希望をもって取り組む方に水を差す意見は心苦しいのですが、現実は政治家や介護団体によって、より一層厳しい状況に追い込まれている事を問題視すべきだと思います。

伝説のプロ野球選手  長嶋 清幸

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


1980年代の広島カープには、西田、長内、長嶋 といった中堅好打者が多数存在。 
投手王国を支える 「縁の下の力持ち」 としてよく特集されたものです。 (但し、捕手の達川を加えて、皆、小柄で見た目や名前が似ている事から、誰が誰やらわからなくなる野球ファンも多かったそうです。)

長嶋清幸は1979年、ドラフト外で広島カープに入団。 高校時代は投手で4番ながら無名。
身長170cm 体重80kg と小柄で丸型ながら、俊足・強肩かつ一発長打に長けた掘り出し物として、阪神、南海、広島がドラフト外で争奪戦を展開。 当初は阪神優勢の中、隙をついて広島が両親の説得に成功。

入団3年目の1982年、167打数 44安打 8二塁打 2本塁打 打率263 の成績を挙げ、翌1984年から外野手レギュラーに。 130試合フル出場を達成すると共に、打率295 本塁打13本 をマーク。 以後5年間、チームの中心選手として活躍致します。 (この5年間のうち4回、ゴールデングラブ賞受賞)

1983年 ・・・ 130試合 137安打 24二塁打 13本塁打 57打点 12盗塁 打率295 = Gグラブ賞
1984年 ・・・ 125試合  94安打 26二塁打 13本塁打 43打点 11盗塁 打率276 = Gグラブ賞
1985年 ・・・ 130試合 132安打 19二塁打 15本塁打 55打点 14盗塁 打率291
1986年 ・・・ 130試合 129安打 29二塁打 12本塁打 54打点 24盗塁 打率268 = Gグラブ賞
1987年 ・・・ 128試合 133安打 20二塁打 15本塁打 53打点  5盗塁 打率288 = Gグラブ賞

特に活躍が注目されたのが1984年。 9月14日の巨人戦で西本聖から本塁打を放ち勝利を呼び込むと、翌日15日には江川卓から本塁打を放ちチームは連勝。(どちらもサヨナラホームランという快挙)
勢いを得た広島はセ・リーグ制覇。日本シリーズの相手は阪急。第7戦にまでもつれ込むデッドヒートを制したのは広島。 このシリーズにおいて長嶋は3本塁打 10打点の大活躍を見せ、日本シリーズMVPを獲得。

しかし・・ 1990年代に入ると若手の成長もあり徐々に出場機会を失っていき、1991年、中日にトレード。
代打や途中出場での起用が多い中、まずまずの成績を収めるも1993年にはロッテ、1994年には阪神に移籍。1997年をもって引退。

日本プロ野球史上 公式戦初となる ” 背番号0 ” をつけた選手でもあります。
小柄ながら豪快なバッティングフォーム。 打った姿勢が、同じく170cmの大砲 門田満光によく似ています。

 = 通算成績 =
 1091安打  108本塁打  448打点  94盗塁  打率271
 ゴールデングラブ賞4回  日本シリーズMVP1回  シーズン最多試合出場3回

介護職の嘆き 安月給 過酷労働 少ない休暇

$
0
0
Sアミーユ川幸町で起こった老人3人が不可解な転落死事故・・・ 23歳の男性元職員が逮捕となり、今や介護現場の悪態が問題視されています。
認知症や性格的な粗暴が原因で、介護職員が手を余す老人が多い介護施設において、恨みつらみから建物の死角を利用した計画的な殺人は狂気の沙汰としか思えませんが、このような行き過ぎた事件は特例というだけであり、一歩間違えれば似たり寄ったりの事件に発展するような事例は多数。 
今回の凶悪事件から介護の現状がクローズアップされ、これだけの事件ですら氷山の一角に過ぎないという事実が世間に伝わった事は皮肉な話でもあります。

結婚や生活維持もできない安月給。週1回の夜勤をしても手取り15万円~少々。賞与は年2~3倍程度が標準で、基本給が安いから10万円台~少々なんて施設も多数。更に退職金制度なし施設も多く、子育て支援や福利厚生が不十分という施設も多数存在します。 

休暇はシフト制が多く不規則。職員数が少なく、引継ぎがスムーズに行えない為、余剰勤務が増え、10~12時間近い労働が平均的。週休2日制となっていても連休は多く望めず、人気の土日休暇は交代で月1回程度。当然、年末年始、盆休、祝日も関係なし。これに夜勤が加わりますが、医療系の夜勤と比べて半額以下の安さ。1夜勤手当が3千~4千円なんて施設はざら。 それも職員不足から2交代制という過酷さ。夜勤明けに帰り、翌日勤務なんて当たり前。 勤務時間を守り、3交代制で健康維持を図るような優良施設は稀。

職員には家庭問題や離婚者が多い傾向もあり、子育てとの両立ができないと辞めていく者も多数。とにかく過酷労働についていけず短期間での離職者の多い事。職員不足を残った職員で補う為、日中はホールに集め、TV守りをさせながら過ごさせる施設も多数。

こんな悪条件、悪環境の中でも、「お年寄りに何かしてあげたい」と善意を持って接する職員は多いのですが、利用者は認知症や精神不安定者も多く、問題や手間がかかる人たちばかり。怒ったり、泣いたり、徘徊したり・・・の高齢者を相手に、失禁・失便の処理~食事介助~入浴支援~汚物処理~と追い立てられ、擦り傷一つもしたら大説教された上、始末書を書かされ、事故でもあれば新聞沙汰。待遇は最低でも責任だけは重い有様。

家族は施設にあずけたら滅多にこない方も多く、来たら来たで、感謝の意よりも先に 「高いホーム代を払っているんだから、もっと〇〇してくれないと!」といった苦情を言う人もいる状況。

全ての施設がこの状況下にあるとは言いませんが、大半の施設は、この事例の幾つかが当てはまるはず。
一つも当てはまらない施設があれば教えていただきたいものです。

これらの環境悪化の原因は、厚生労働省の繰り返される「介護報酬引き下げ」 が全てです。
過酷労働に責任だけ負わされ低賃金、休み少なし・・・ の上、報酬が減る分、昇給賃金より高騰する社会保険費の方が上回り、働けば働く程 「貧乏」 になっていく矛盾。
当然ながらよい人材が集まる事はなく、ストレスや性格不和から、今回の川事件が発生。
にもかかわらず、厚生労働省は、「介護の質が悪いのは教育が不十分だからだ」 と責任転嫁し、介護職員の講習時間追加ばかりを押し付けてきます。 その為、休暇は仕方なく朝~晩まで講習に行かされる事も多く、心身ともに疲れ切って、介護職離職は急ピッチで進んでいます。

安倍内閣は介護離職者防止の為、三本の矢政策に、特別養護老人ホーム建設ラッシュをうたっていますが、肝心の働き手の事は知らんふり。 そして大臣の塩崎氏も、反対かと思えば手のひら返して首相の御機嫌取りに躍起。いい加減、「臭い物にフタ」 ばかりせず、事実(現実)を振り返ってもらいたいものです。

伝説のプロレスラー  マスカラス・ブラザーズ

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2

昭和プロレス史上、最強タッグチームと言えば、「スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ」 の超獣コンビ。
圧倒定なパワーと体格。 観る者、誰もを納得・満足させるフィニッシュ・ホールド。 このコンビの前には、一昔前に最強と言われた 「ザ・ファンクス」 「ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田」 もタジタジ。

そんな中、1983年(昭和58年) 全日本プロレス世界最強タッグにおいて、「マスカラス・ブラザーズ」が対戦。 正直、やる前から結果がわかっている試合ながら、人気チームの激突観たさに、福岡国際センターは超満員。
好カード一つで大会場が満員となる昭和のプロレス。 その熱気・・・ その声援・・・ その話題・・・ ファン同士の語り・・・ 今ではもう体験する事のできない ” プロレス愛 ” が、この時代にはありました。

試合は序盤から超獣コンビのパワーが炸裂。 5分の力でマスカラス兄弟をいなす姿に会場のファンから、必死の声援が飛び交う中、フライング・クロスチョップやアトミック・ドロップとツープラトン攻撃で反撃するも、最後はドス・カラスがブロディにつかまり、助走なしの雪崩固め (パワースラム?) 一発でフォール負け。

実兄弟ならではのコンビネーション・・ という程でもなく、技もショボく、動きも鈍い小柄マスクマンコンビ・・・。 
今のプロレスファンが観たら、確実に暴動モノ? かもしれない凡戦に酔いしれるファン。
でも、そこが昭和プロレスの面白さ。 勝負の行方がわからない名勝負・熱戦に酔い、勝ち負け関係なく、好きなレスラーの試合を観る事に酔う・・・ 難しい理屈や理論なしに、各自の感性だけで受け止める楽しさが醍醐味だった時代。 
今の時代観では凡戦でも、当時としては最高のカード。 まさに 「古き良き昭和」 が凝縮された一戦だったように思います。

動画やケーブルTVのなかった昭和時代・・・ 
録画放送を見るか、直接会場に行くしか観戦手段がなかった事も会場が満員になる理由だとは思いますが、もう一度、あの頃に戻って、あの熱気ある会場でプロレス観戦をしたくなる時があります。
個人的にはさほど好きなコンビではなかったのですが、「マスカラス・ブラザーズ」 と聞くだけで、気持ちは1980年当時にタイムスリップ。 ちなみに70歳をこえたマスカラスが、いまだに第一線で活躍とは・・(汗)

P/S ・・・ 
この一戦の実況は倉持アナ、解説は田鶴浜。 試合前から勝負の行方は決まっているような二人の噛みあわないヘボトーク。 田鶴浜の 「~ですな」 といった嫌味なオヤジ喋り、そして意味不明なスターウォーズ例え話。
流暢な喋りの古館&小鉄の噛みあった実況・解説が売りの新日本と比べて、よくレスラー名や技名を間違える倉持アナ+野暮ったい解説陣(馬場も含め・・)の全日本。 今思えば、この解説の差にも、「新しさを追求する新日本」 と 「伝統やレトロを重んじる全日本」 のプロレス観が出ていたように思います。

伝説のプロ野球選手  水谷 実雄

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


宮崎県の古豪 宮崎商業出身。(春2回 夏4回 ・・ H28・2時点)
身長180cmと大柄で、野球センスも抜群の水谷はエースで4番。 1964年(昭和39年)、第46回・夏の甲子園大会に出場すると、2年生とは思えない剛腕ぶりを発揮し、2-0旭川南 4-1滝川 5-1熊谷商工と撃破、準決勝で高知と対戦。 白熱した熱戦は1-0で高知(今大会優勝)に軍配があがりますが、この快進撃がきっかけとなり、翌1965年(昭和40年) 広島カープよりドラフト4位指名を受け、投手として入団します。

甲子園での活躍もあって注目されるも1年目から内臓疾患(腎臓病)を起こしてリタイア。
翌年から打者に転向するも、内野の守備に不慣れな為、凡ミスを連発し、ついには外野に再転向。 
あまりに守備が下手な為、一時は解雇寸前にもなったという逸話が残っています。

表舞台に立つようになったのは入団4年目の1970年(昭和45年)になってから。
強打者特有の強振をせず、投球パターンに応じて配球を読み、コンパクトに振りぬくスタイルが身につくと安打を量産。1975年(昭和50年)~1983年(昭和58年)にかけ、8回のシーズン100安打以上をマーク。
内5回、打率3割以上と打ちまくり、1978年にはセ・リーグ首位打者に、阪急に移籍した1983年には打点王に輝く等、プロ野球を代表する好打者として活躍しました。

1983年(昭和58年)、古葉監督のチーム若返り目的で阪急にトレードされますが、相手はベテランの加藤秀司。それも前年(1982年)の成績を比べれば、水谷は打率303 に対し 加藤は235 と低迷。
同じアベレージヒッタータイプの中距離打者。 気が強く頑固なあたりも同じとなると、問題児の加藤よりも、カープ一筋、不動の5番打者の残留を求めるカープファンも多く、古葉に対するファンの信頼度が徐々に低下していくきっかけになりました。
そんな中、加藤は故障を起こし僅か75試合 打率261の成績しか残せず、翌1985には近鉄に移籍。
水谷は130試合全てに出場し、139安打 36本塁打 114打点 打率290 で打点王ですから、カープファンの怒りは最高潮。 それでも古葉が監督を続けれたのは、これらのベテランの力がなくても若手の成長があり、1983年=2位 1984年=優勝 1985年=2位 と安定した成績を残したから。

ベテランになればなるほど円熟味を出した水谷でしたが、1984年の開幕戦において、土屋正勝より頭部死球を受けリタイヤ。以後、いぶし銀のバッティングは甦ることなく、1985年(昭和60年)をもって引退。

 = 通算成績 =
 1522安打  244本塁打  809打点  44盗塁  打率285
 首位打者1回  打点王1回  ベストナイン1回  日本シリーズ優秀選手賞1回  オールスター出場1回
 シーズン最多二塁打1回  シーズン最多試合出場1回

伝説のプロ野球選手  ルイス・サンチェ

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


1971年(昭和46年)、若干17歳の若者がアストロズと契約。
身長187cmの巨体から、重くて角度のある速球と落ちる変化球(フォーク)を武器にするも、なかなかチャンスに恵まれず、マイナー・リーグ~メキシカン・リーグと渡り歩き、初めてメジャーに昇格したのは1981年(昭和56年)と言いますから、まさに苦節10年・・・。
以後、エンズルズの抑えとして5年間活躍。 28勝(21敗)27セーブを挙げます。
しかしすでにベテランの域に達しようとしていたサンチェの待遇はあがらず、1985年オフにはエキスポズに放出が決定。 悩めるリリーフにエールを送ったのが巨人軍でした。

1985年(昭和60年)当時といえば、まだ助っ人選手には先発(それも二桁勝利のできる)か、クリーンナップ(それも長打力あり最低30本は本塁打が打てる)かが求められる時代。
そんな中、抑え投手として外人枠を使う巨人には、正直驚きの声があがりました。
(巨人もそんな声がある事は承知。しかし抑えの角の衰えもあり、実績ある抑え投手探しが急務であったらしい)

このサンチェを巨人軍に勧めたのは阪急で活躍したマルカーノ(同じ、べネズエラ出身)。
当初は南米の気まぐれな血が災いし、来日予定を守らなかったり、日本野球を舐めたような態度が見られたりとお騒がせぶりを発揮。ペナントレースに入ってもサヨナラ暴投をする有様。
しかし、徐々に調子をあげてくると、角度のある直球に威力が増し、決め球のフォークで三振の山。「魔球を投げる男」 として一世風靡。 オールスターにも選ばれる活躍を見せます。
(最高球速は145kmながら角度と威力が凄まじく、中堅投手の中には並んで投球練習をする事を嫌がる者がいたとか・・・)

ところが・・・ オールスターでの試合中、右上腕二頭筋疲労性筋炎となり失速。
これは外人特有の、下肢筋力を使わず上腕筋での強引な投げ方が原因であると、当時の皆川睦雄コーチは、下肢筋力の体重移動等を指導しますが、当の本人は、「アンダースロー投手に、オーバースローの事がわかってたまるか!」 と猛反発。 結果、罰金30万円・・・というトラブル。

また極度の水虫持ちで、あまりに悪化し過ぎてスパイクが履けなくなり二軍落ちした事も・・・。
(巨人選手からは同じ洗濯機で洗わないでくれ・・といった嘆願書が出されたというエピソードがあります。)
元々、脚裏が大きい為、スパイクも特注。 あまりに水虫が酷いので見かねた巨人スタッフが、5指にわかれた靴下をプレゼントしますが、本人は 「かえって水虫が悪化した!」 と御冠だったとか・・・。(八つ当たり)
(湿気が多い日本という気候を説明しても納得しなかったというあたり、いかにもトラブル男らしいエピソードです。)

そんなトラブル男だけに巨人軍もお手上げ状態の中、皮肉にも水虫で不振の間に、鹿取という抑えが育ち、サンチェは無事?解雇に・・・。
2005年2月4日 ベネズエラにて脳血管疾患にて永眠。(満51歳)

= 通算成績 =
(メジャー)   28勝  21敗  0ホールド  27セーブ  216奪三振  防御率3.75
(日本)      4勝   4敗  0ホールド  28セーブ   59奪三振  防御率2.54
  オールスター出場1回

伝説のプロレスラー  スティーブ・ウィリアムス

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


1993年8月31日 全日本プロレス豊橋大会における三冠挑戦決定戦・・・ 小橋と対戦したウィリアムスは、垂直落下式(脳天落とし)バックドロップを披露。以後、「デンジャラス・バック・ドロップ」 として彼の必殺技に・・・。
実はデビュー当初にも使った事があったようですが、あまりの破壊力と受け身のとれない急角度から怪我人続出。1990年にはオリンピック男・谷津が受け身をとりそこねて脇腹骨折した事もあり、流石に本人も危険だと察知したのか、自ら封印していた必殺技でもありました。

なんでもありと思われがちなプロレス技ですが、そこは暗黙の了解があり、それなりの禁じ手が存在します。
古くはアメリカの各州ではパイル・ドライバーが禁じ手とされましたし、あの馬場の脳天チョップも考案当時、力道山から 「相手を殺す可能性が高い」 と禁じ手にされていた時期があります。(結局はブルーザー戦で解禁)
ブルーザーはプロレス界一の無法者として恐れられましたが、必殺技のアトミック・ボムス・アウェイの際、相手の力量を見ながら片足か両足かを決めていました(大半は片足)。
いまやつなぎ技になっているブレーン・バスターも当初は、コックス式の脳天落としは危険すぎると、背中落とし式のタイプに変化していった経緯があります。
テーズ戦で見せたゴッチのバック・ドロップ封じは逆のパターン。わざとバック・ドロップを食らいながら、自らの体重をテーズの上半身にかかるように落ちた為、テーズは肋骨数本を骨折。 勝負には勝つも、以後半年間、まともに試合ができず、「ゴッチは汚い男だ。勝つためには手段を選ばない」と激怒し、二度とゴッチの兆戦を受けなかったエピソードは有名です。

そんなプロレス界の暗黙の了解が崩れた瞬間が、あの豊橋大会における急角度バック・ドロップだったというプロレス評論家が多数存在。 事実、その後のプロレス界は、受け身のとれないような投げや落とし方の技がもてはやされるようになり、過激ぶりがエスカレートする反面、怪我人続出・・・ 疲労の蓄積・・・ ついには三沢の死(試合での過労の他、運営不振のストレスや多忙からくる不摂生も原因)につながっていきます。

ウィリアムスは大学時代、アマレス大学選手権4連覇の実績をもつ、筋金入りのレスリング男。
それだけに投げ技は得意で、急角度での 「投げっぱなしジャーマン」 や 「オクラホマ・スタンピート」 更には怪力をいかして、「ドクター・ボム(サイドスープレックスの体勢からパワーボムに切り替える技)」 リフトアップ・スラム」 も披露。 全日本プロレスの常連レスラーとして人気を博しました。
反面、ジャイアント馬場は怪力主体に危険技を連発するウィリアムスへの評価が低く、何某につれ酷評・辛評。
これは大柄レスラー特有の身体の硬さが不器用に見える為、レスリング基礎があっても試合運び下手を毛嫌いする馬場らしい評価とも言えます。(オーバーアクションをする鶴田あたりも同じような酷評でした)

三冠ヘビー級王者の他、世界タッグ王者に8回も君臨した実力者でしたが、2009年12月29日、喉頭癌により永眠。(満49歳)

伝説のプロレスラー  安田 忠夫

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2

大相撲時代、「あなたは親孝行をしていない」 と性別判定士に言われた事がきっかけで、四股名を 「孝乃富士」にしたという安田忠夫でしたが、異常なまでのギャンブル狂が発端となり、相撲廃業、離婚、借金生活・・・。
何をしても中途半端で続かず、トラブルの繰り返し。 一体、親孝行はどこえやら。

身長192cm(一説では195cmとも) 体重130kg(相撲時代は160kg) という恵まれた体格を活かして大相撲では幕内33場所 最高位・小結に昇格。 敢闘賞1回 金星2個(どちらも双羽黒)と、それなりの結果を残すも、28歳にして廃業。 理由は定かでありませんが、すでにこの頃には九重部屋にヤクザがギャンブル借金回収にきていたと言いますから、闇の世界との関係があったものと思われます。

引退後、新日本プロレス入り。 
輪島が全日本プロレス入りした時のように、知名度や実績のある力士が入ると、団体は大々的に売り出すのが慣例でしたが、新日本に限っては、問題児・北尾(元横綱・双羽黒)での失敗に懲り、実績があろうが特別扱いしない方針で対応。 その為、プロレスに馴染むまでの間、鳴かず飛ばず状態が続きます。

転機が訪れたのは2001年に総合格闘技参戦を果たしてから。
アントニオ猪木・人間再生プロディース企画にて、大晦日 ”INOKI BOM-BA-YA 2001” に出場し、なんとメインで当時無敵を誇ったジェロム・レ・バンナと対戦。 圧倒的不利との予想を翻し、2R・ギロチンチョークで大金星。(前の対抗戦では、レネ・ローゼにハイキックKOされており、まさかの展開に会場大興奮)
娘のAYAMI(元レースクイーン)を肩車しながら 「お父さん、やったぞ~」 と叫ぶシーンは感動?させました。
(但し、後にAYAMIが言うには、”最悪の気分だった” との事)

2002年には藤田和之からIWGPヘビー級王者を奪取する大金星。
2003年には、高山善廣(当時、IWGP+NWFの二冠)を破る大金星。

弱いのか、強いのか・・ 不思議な魅力を発揮し、さあこれからという時に、またもトラブルを連発し、2005年、新日本プロレスを解雇される始末・・・。
2007年には練炭を使用した一酸化中毒自殺を試みるも失敗。
(本人曰く、”焼肉食おうとしたがガスを止められていて仕方なく七輪に火をつけた。ところが今度は肉を買う金がないので、一人空しくエア焼肉していたら、不覚にも眠ってしまっただけ・・” とわけがわからぬ言い訳をしている)

以後、牧畜農家で雇われ・・ クビ。 ブラジルに渡って農場経営を目指すも、プロレス引退興行のトラブルから断念。 更にはカンボジア国際カジノに就職するも早々に退職。 
何をしてもトラブル、ギャンブル、借金、仕事の続かない男。
しかし、それもまた彼の人生。 また52歳(H28・2時点)ですし、再度、人生の大金星をあげる日がくるかも?

子供は知らぬ間に成長していく・・ ” お咲希さん ”

$
0
0
平成28年2月27日(土) 
3歳6ヶ月の ”お咲希さん” は、現在、年少さんよりもう一つ下のクラスで某幼稚園に通っています。
今日はお遊戯会があり、15名の仲間たちと ” おどるポンポコリン ” を披露。 
二列目の後ろ端という最悪なポジションの為、前の子が邪魔をして、巧く動画が残せなかった事は悔まれますが、一番踊りを覚えていて、大きな動きで正確に踊っていたので◎。
冷静に、たんたんと物事をこなす子なので、あまり目立たないかもしれませんが、絵を描かせると、細かな部分(ミカンの絵だと、緑の葉っぱや果実皮のブツブツ模様まで忠実に再現)まで描きますし、一度通った道や、入った店は、完璧な程覚えていてナビしてくれます。 
先日は、幼稚園で描いたという猿の絵を見せてくれましたが、特徴をつかんで面白く描いていました。
お遊戯会から帰宅後は、庭でドロのハンバーグ作りに夢中。 先日、ママと一緒に作ったそうで、材料選び?から焼き方まで、けっこうまともな事言うのでびっくり。
一人っ子の甘えん坊ですが、親の知らぬ間に成長している事に気付き、なんとなく嬉しかったです。
とはいえ、年相応には良い人見つけて結婚していただかないと・・・。 今から料理修行に大忙し・・・。

イメージ 1
「ふっくらなるようにこねて・・」 とか、本格的な事言いながらドロのハンバーグ作りに取り組む ”お咲希さん”

イメージ 2
幼稚園で作ったという猿の絵。 目、鼻、口、頬 の位置が正確で、目玉の中のキラキラも意図的だとか。

伝説のプロレスラー  尾崎 魔弓

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


昭和40年に放送された ” ウルトラマン ” の中身には、スリムでダンディな古谷敏が入り演じていましたが、古谷はヒーロー役ばかりでなく、ウルトラQの ” 海底原人ラゴン ” 等、怪物や悪役まで、幅広く演じていました。
(その後、あまりに古谷が美男子だったので、ウルトラセブンでは素顔で ” アマギ隊員 ” として参加。何事にも真剣に取り組む演技姿勢が高く評価され、今でもセブン伝説の隊員として人気があります。)

このように、役時々によってイメージを演じ分けられる実力派は、どの世界でも重宝されますが、尾崎魔弓もその手の実力者。 悪玉あり正統派ありデスマッチあり・・・ の何でも屋ながら、全てにおいて実力は最高クラス。

1986年(昭和61年)にジャッキー佐藤が起ちあげたジャパン女子プロレスに入団。
当初は悪役主体で活動し、ジャパン四天王であった風間ルミとの抗争を展開。 当初は格闘歴のある風間有利も徐々に劣勢に追い込み、1987年10月、風間よりJWP認定Jr王座(ジャパン女子版)を奪取。
その独特の雰囲気からかもしだす妖気っぽさもあり、一気にスターダムにのぼって行きます。

ところが1992年、ジャパン女子プロレスは経営難を理由に解散。 分裂後はJWPに所属し、キューティ鈴木との抗争や、悪役でありながら正統派プロレスも使いこなす実力が再評価され、JWPのトップレスラーに君臨。
このJWPは他団体抗争を売りにした事もあり、1993年4月11日 大阪府立体育館にて、豊田真奈美&山田敏代から、全日本女子プロレスの看板タイトルであるWWWA世界タッグを奪取。(パートナーはダイナマイト関西)
1993年12月6日 両国大会で、井上京子&井上貴子に敗れるまで、約8ヶ月も王者に君臨。

ところが・・ 1997年8月15日のタッグマッチにおいて、尾崎がかけたライガーボムによりプラム麻里子が帰らぬ人となるハプニング。 これが理由なのか、以後はデスマッチ路線に走り、蛍光灯デスマッチ(ロープに蛍光灯を巻き付けるというもので、割れた破片が危険かつ残酷なデスマッチ)や有刺鉄線デスマッチ、挙句にはガラスや観客が凶器をもって乱入OKのデスマッチまで敢行。
その過激で果てしない狂気のデスマッチの数々・・・ いったい何が彼女をそうさせるのか・・・。

反面、保育士を志す等、潰しの効かない女子プロレス事情も理解している模様。
FMWから始まった恐怖のデスマッチ各種・・・ 一昔のデスマッチと違って、狂気の沙汰なものも多々。
最近のプロレス事情を知らない私には、そこまでしなければファンの満足度が得れない程、プロレスは低落しているのかと嘆きたくなるのですが・・・。(ヘビーからルチャ、時にショーまで、プロレスには幅があってもよいと考える方ですが、プロレスの域を度外視した過激デスマッチは否定的です。理由は簡単。ファンは過激を見れば更なる過激を求めますし、満足しなくなります。このラインの崩壊はプロレス自体の崩壊だと思うからです。)

伝説のプロ野球選手  トニー・バーネット

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


身長188cm 体重86kg の巨体から、最速156kmの速球と多彩な変化球、更には平均134kmのチェンジアップを投げ込み、実に6年もの間、ヤクルト投手陣(主に抑え)を引っ張ってきたバーネットですが、2016年からはテキサス・レンジャーズでのプレーが決定。
WBCでの日本野球の活躍や、質の高い日本人投手がメジャーで活躍している恩恵からか、近年は厳しいマイナーリーグを回避して、日本で名をあげてメジャー入りする外国人が増えてきました。
バーネットもその一人。ヤクルト入りする前は、マイナーで97試合登板(内、96試合が先発)し、39勝 27敗 防御率4.36 の成績を残しますがメジャーからのお呼びはなし。
速球に強いアメリカ野球だけに、156kmの速球をしても並みの投手扱いというあたり・・・ メジャーリーグの選手層の厚さを感じます。

2010年よりヤクルト入り。
4月2日の横浜戦で先発すると、7回無失点 二桁奪三振をマーク。 時期エースとして期待されるも以後、制球を乱しては自爆といった投球が増え二軍落ち。 
このあたりは小柄でパンチ力はないが、コツコツ当ててくる日本野球。 一度パワーピッチングに順応すると選球眼よく見極めてきます。 そんなこんなで終盤まで結果を残せず、オフには自由契約選手扱いに・・・。

なんとか残留した2年目、速球を活かすべく中継ぎ、抑えに回ると真価を発揮。
48試合に登板し、1勝1敗2セーブ22ホールド 防御率2.68 の好成績をあげ、翌2012年からは抑え中心に起用が決定。 57試合に登板し、1勝2敗33セーブ3ホールド 防御率1.83 の成績をあげ、最多セーブ投手のタイトルを獲得します。

ところが、調子の良し悪し以上に問題なのが、怪我の多さ。
飛躍の年となった2011年、右手首剥離骨折を起こし戦線離脱の他、2013年には右内腹斜筋肉離れ。
2014年4月に左十字靭帯部分断裂すると、シーズン終了間際の9月に左脇腹痛で離脱。
それでも2015年は59試合に登板。 3勝1敗41セーブ6ホールド 防御率1.29 と圧倒的な安定感を魅せ、2度目の最多セーブ投手タイトルを獲得。

バーネットが日本野球で成長した要因は、決め球となる変化球を覚えた事で速球が生きた事。そして、日本野球を見くびらず真剣に取り組んだ事ではないかと思います。

~ ヤクルト退団の際の、バーネットからのメッセージ ~
「6年前、ヤクルトスワローズから声がかかった時、日本とヤクルトが私たち家族にこれほどの影響を与えるとは思っていませんでした。今は感謝の気持ちでいっぱいです。 私たちはフィールドの内外で日本の野球ファン、特にヤクルトファンから受けた優しを忘れません。神宮球場で見た野球音頭や、傘を使った応援スタイルが、もう見られなくなるのは悲しいです。 日本の人々や文化から色々な事を学びました。 日本で経験した様々な事を糧に、今後の人生も歩んでいきたいと思います。 (中略) 素晴らしい経験を有難う御座いました。」

= 2015年時点での通算成績 =
11勝  19敗  49ホールド  97セーブ  336奪三振  防御率3.60
最多セーブ投手2回  オールスター出場2回  月間MVP1回  JA全農・GoGo賞1回 

笑わせる史上最強の授業

$
0
0
今、世間を賑わせているのが、三重県伊賀市にあるウィッツ青山学園高校。

数学 ・・・ USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)で買い物をした際のおつり計算で数学の授業とみなす。
英語 ・・・ 移動中のバスで見た洋物映画で、英語の授業とみなす。
家庭科 ・・・ レストランで夕食をとって家庭科の授業とみなす。
体育 ・・・ 駅から学校まで1,6km歩いたら、体育の授業とみなす。
社会 ・・・ 忍者博物館に行き、スマホで忍者を調べたら、歴史の授業とみなす。
美術 ・・・ 神戸で美しい夜景を見たら、美術の授業とみなす。

この高校のパンフレットには、「卒業保証」「卒業できなければ全額返金」との文字・・・。

文部科学省 義家弘介副大臣のコメント
「あきれてものが言えません!」

これまでスポ根学校とか、アイドル学園とか、ヘンな学校を多数見てきましたが、この高校は最高です。
こんな高校が存在するのですから、日本という国がいかに幸せな国か・・・ よくわかりますね。

2015年12月時点での全国生活保護受給世帯は過去最高の163万4185世帯。
受給者数も過去最多の216万5585人。 我が愛媛県の人口は143万人ですから、生活保護者の数の方がダントツで上回ります。 ちなみに49.6%が高齢者(65歳以上)という現実・・・・。

こんな高校が存在したり、シャープは台湾下請け企業に買収・・・ 
政治家の皆さんは何やっているのでしょうね。 (選挙だ・・ 民主の名を残すやら、新党やら・・・ 自分の事で一生懸命ですものね。)

伝説のプロレスラー  スコット・ノートン

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


アームレスリング世界大会優勝(その他、全米アームレスリング大会3回優勝)に、シルベスター・スタローン主演の映画 「オーバー・ザ・トップ」 にも出演。
プロレス入りした時には、すでに話題の人であったというノートン。 身長190cm 体重160km の巨体とミラクル攻撃の前には、日本の名だたるレスラーが敗戦。 長きに渡り新日本の常連レスラーとして、” 越えなければならない壁 ” という立場で人気者となりました。(異名は超竜)

広いアメリカにおいて、偶然にも高校時代のクラスメイトがホーク・ウォリアーだった事が呼び水となりプロレス入り。 当初はレイガンス教室に所属。 以後、バーン・ガニアから手ほどきを受け、1989年にデビュー。
人気の割(有名な)にはショーマン派でない分、パフォーマンスよりも実力者を喜ぶ日本向きのレスラー。
怪力自慢・日本人レスラーの得意技を食らってもケロッとしており、あの長州力が渾身のラリアートを放っても効果なし。シンプルな古典技を駆使し、大反撃に移るのがいつものパターン。

必殺技は ” 超竜ボム ” ” 超竜式パワー・スラム ” といった投げ捨て式の大技。
ただ自身の巨体を浴びせるのではなく、怪力に任せて持ち上げての投げ捨て技が主体なのは、事故防止も兼ねているものと推測します。(160kgがまともにのっかりパワー・ボムをしたら・・・ 相手は死んでしまいます。)

1992年11月22日、両国国技館にて念願のIWGPタッグ王座を奪取。(相手はシュナイダー兄弟。トニー・ホームとタッグ) 同年12月14日 大阪府立体育館において、ホーク&パワーのヘルレイザースに敗戦し、僅か1ヶ月で王者転落するも、1993年8月5日 両国国技館では、ヘラクレス・ヘルナンデスとのコンビ(ジュラシック・パワーズ)でリベンジを果たし、再び王者に君臨。
IWGPヘビー王座にも2回君臨。 2005年くらいまでがピークだったように思います。

160kgとされる巨体ながら、ブッチャーやベイダーとは違って、筋骨隆々のボディ。
ベンチプレスは驚愕の358kgだとか。 とにかく練習熱心。 そんなノートンは今、アメリカ・テキサスのベンツ販売で働いているとか・・・。 まだ54歳(H28・2現在)。 引退は早すぎます!

伝説のプロ野球選手  高木 宣宏

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


1981年(昭和56年) 第63回 夏の甲子園大会 といえば、名古屋電気(現・愛工大名電)の工藤公康の怪腕ぶりが思い出されます。 二回戦 長崎西相手に金属バットにかわって初となるノーヒット・ノーランを達成。
切れの良い速球と ”魔球” と言われた大きなカーブをテンポ良く投げ込み、一躍注目の投手に・・・。
そんな工藤と3回戦で対戦したのが、大阪の名門・北陽高校。 延長12回にまでもつれる大接戦を制したのは名古屋電気でしたが、あの工藤をあと一歩まで追い詰めた白熱戦は、今でも語り草になっています。

その時の北陽投手が、”高木宣宏”。 身長180cm近い長身ながら、体重は65kgと細身。 更に童顔。
MAX147kmの速球とキレの良いカーブのコンビネーションが武器。
1981年のドラフトでは、3位指名を巡って、西武、ヤクルト、広島による抽選が起こり広島が獲得に成功。
ワインドアップから全身のバネを効かせたような豪快なフォームで、徐々に力を蓄えると、入団4年目の1985年、30試合に登板(内、20試合に先発)し、9勝6敗 防御率3.90 の成績を残し、時期 広島のエース候補として人気が高まります。
(この年は阪神が日本一になった年にて阪神フィーバー。そんな中、高木の9勝は全て前半戦に挙げたものだった為、一段と活躍が注目され、オールスターにも選出されます。後半は疲れから1勝もできず・・でしたが・・。)

ところが翌1986年、左肩痛を起こしリタイヤ。
以後、あの快速球は甦る事無く、1991年、高山郁夫とのトレードで西武に移籍。
再起が期待される中、またも左肩痛が再発。 それをかばって肘まで痛める始末。 
2軍での登板もできない程の重傷投手ながら、1993年まで現役でいられたあたりは日本野球界らしさ。 日本野球の良くも悪くもの面は、一度実績を残すと、怪我等で低迷しても、再び復活する事を信じて雇用してくれる事です。メジャーでは、まずありえませんが・・・。

引退後は石材店のセールスマンとして再出発。 その後、保険代理店に勤務。(一時期、コーチとして復活した事もありました)
プロ野球選手は引退後がたいへんだと言いますが、このあたり、今でこそ改善方向で検討されるも、なかなか思うような受け皿作りには至っていないようです。

 = 通算成績 =
 16勝  18敗  0ホールド  0セーブ  221奪三振  防御率3.85
 オールスター出場1回

恐竜が怖い・・ お咲希さん

$
0
0
平成28年2月27日(土)
H28年2月24日、待望の「ジュラシック・ワールド」DVD発売。
Amazonに予約していたブルーレイ&DVDが届いたので、早速ホームシアター(7.1)で鑑賞。
ちなみに、嫁さんと ”お咲希さん” は買い物に行き留守。
部屋を暗くして・・ コーラとポップコーンも用意して・・ 
ウーハー効果もあり、家が揺らぐような大音響(隣に民家がないので好き放題です)を楽しみました。 
1回目の映画が終了した頃、二人が帰宅。 
お咲希さんも見たいというので恐竜シーンを再現すると・・・ 逃げて行きました。 
あとで 「怖かった。 もう恐竜は見ない!」 と言うあたりは女の子。 トラウマになったようです(汗)
ちなみに、ウルトラマンや仮面ライダーも嫌いだとか・・・。 
二人でいる時はホームシアターで 「NHKできるかな」 ばかり見ています・・・。

イメージ 1
このジュラシック・ワールドを観る為に、わざわざアンプもヤマハに買い換えました。 リア、サイド、メイン、センター+ウーハー。 地鳴りがするような重低音。映画館以上の大迫力に満足。(嫁さんは ”うるさい” と怒っていますが・・・)

イメージ 2
周りからは、「映画館にも2回観に行ったのに・・・よく飽きないね・・」 と言われますが、それとこれは別?

伝説のプロ野球選手  高橋 由伸

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


1997年のドラフト会議において、巨人軍を逆指名し、1位入団を果たした高橋由伸。
その野球センスは投打にわたりずば抜けており、天性の打撃センスに加え、MAX149kmの剛速球ありという野球の天才。 身長180cm、遠投120m、50m走 6.0秒 という身体能力。 一本足打法ながら動体視力に優れ、少々の悪球も安打にしてしまう野生の勘。 甲子園に2回出場し打率400、リーグ通算打率325。 六大学新記録となる通算23本塁打を放った抜群の長打力。
入団が決定した時の長嶋茂雄(当時監督)の喜びようは他と比べようもない程で、「21世紀のスター」「未知なる天才バッター」と、海とも山ともわからぬ入団時から大絶賛。

千葉県出身。中学時代には、すでに県下に轟く野球天才として、多数の有名強豪校から勧誘を受ける中、野球以外の道も模索するというクールな性格もあり、慶応義塾大学への進学にも対応できる桐蔭学園(神奈川)を選択。1年生からレギュラーとなり、外野手兼投手として2度の甲子園大会に出場します。
卒業時にはヤクルト、西武といった球団から指名挨拶があるも、本人は野球に対するこだわりをもっておらず拒否。指定校推薦枠で念願の慶応義塾大学に進学。 ここでもクールな性格は変わらずで、記録的な大活躍を繰り返しながらも、まだプロ野球の世界に飛び込むか決めかねていたとか。

入団1年目(1998年)、126試合に出場し、140安打 19本塁打 75打点 打率300 という好成績をあげると、以後、7年連続を含む計8回100安打以上、11年連続を含む計14回二桁本塁打、4年連続を含む計7回の打率300以上をマーク。
守備も上手く、6年連続を含む計7回のゴールデングラブ賞を受賞。 ベストナインにも2回選出される大活躍。
実力に甘いマスク、人気者なのにクールな選手・・・ 常に巨人軍の「顔」として注目をあびます。

反面、怪我の多い選手でもあり、毎年のように好成績を残すのですが、主要タイトルには一歩届かずの繰り返し。2008年の5月に持病の腰痛再発すると、治ったり再発したり・・。
更に2011年には、4月にフェンス激突で左肋骨骨折。 2012年、130試合に出場するも、88安打 8本塁打
打率239 と低迷。 以後は控え件、代打の切り札としてチームに貢献。

2015年、本人は現役続行を希望しながら、第18代巨人軍監督要請を受け引退。
「当初は選手兼任監督を希望しましたが、よく考えるとそんな甘いものではないと思うようになり、引退して監督一本でいきます。」 というコメントに、クールで人望が厚い高橋由伸という男像が見られます。
これ程の天才が、2000本安打に届かず・・ もう少し怪我が少なければ・・ と思うと残念です。

= 通算成績 =
1753安打  321本塁打  986打点  29盗塁  打率291
ベストナイン2回  ゴールデングラブ賞7回  月間MVP5回  シーズン最多出場2回
オールスター出場9回  オールスターMVP1回  東京ドームMVP1回  シーズン最多死球1回
シーズン最高長打率1回  入団以来6年連続ゴールデングラブ受賞(日本記録)
シーズン先頭打者本塁打9(日本記録)  11打数連続安打(四球3含む・タイ記録)
セ・リーグ会長特別表彰

伝説のプロレスラー  永田 裕志

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2

アントニオ猪木 VS ウィリー・ウィリアムス戦において、バックをとった猪木の額に、ウィリーのキックが炸裂したシーンがありますが、一瞬の隙や油断が、そのまま反撃の糸口になるのが格闘技。
ところが、永田のパフォーマンスは 「白目を剥くこと」 ・・・。 当然、白目を剥いている間は、何も見えませんから、もしもとっさの反撃を食らったら、大怪我する事間違いなし。
個人的には気持ちが悪いし、危険だし・・にてやめてもらいたいパフォーマンスですけど・・・。
(ザ・シークも怪人のイメージを出すため、舌を出していましたが、かなり危険な行為です。)

白目の他にも、幾つかのパフォーマンスがある為、「プロレス一のひょうきん者」と言われる永田ですが、実はアマレス全日本学生選手権において3連覇を成し遂げた実力者。(グレコローマン)
その為、スープレックスのキレ味は鋭く、関節技も得意。 更にキックも使うという万能レスラー。

身長183cm 体重108kg と、ヘビー級にしては小柄。 1998年、IWGPヘビー王者をかけスコット・ノートンと対戦。体格の差はいかんともし難く惜しくも敗れますが、翌年のG1では、藤浪辰巳や佐々木健介を破る活躍。 同年、中西学とのコンビでIWGPタッグ王座を獲得。
2001年8月 G1では、武藤敬司、蝶野正洋を破り初優勝。 
2002年4月5日には安田忠夫を破り、IWGPヘビー級王者に君臨。 計10回の防衛に成功。
新日本プロレスを代表するメイン・レスラーへと成長していきました。

反面、ディフェンスには難もあり、噛みあいの悪い対戦相手の時は、失態を繰り広げる事も・・・。
2001年5月5日の福岡ドーム大会では、異種格闘技戦としてレイニー・マルティネスと対戦。 足取り袈裟固めを決め勝利するも、12月に行われた猪木祭では、K-1のミルコ・クロコップに、左ハイキック一発、わずか22秒でTKO敗け・・・。 2003年12月31日のイノキボンバイエでは、PRIDEヘビー王者のエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦、1分2秒、レフリーストップ敗け。

2005年にはフロントとの確執からヒールに転向するも、新日本プロレス・現場監督に復帰した長州の人望薄からくる、蝶野を中心とした反長州派との狭間に立たされ中止。 2007年には再びIWGPヘビー級王者に返り咲いています。

以後、体調を崩したりと四苦八苦の中も第一線で活躍。全日本にも参戦し、チャンピオン・カーニバルで優勝。
第50代 世界タッグ王者にもついています。(パートナー・・ケンドー・カシン)
プロレスリング・ノアでは、第21代 GHCヘビー王者、第7第 GHCタッグ王者(パートナー・・棚橋弘至)、グローバルリーグ戦優勝と大活躍。
ZERO1-MAXでは、第2代 ZERO1世界ヘビー級王者に君臨。

1968年4月生まれの47歳(H28・2月現在)、必殺バックドロップ・ホールドはまだまだ健在です。

伝説のプロ野球選手  マット・マートン

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


2010年の日本プロ野球には激震が・・・。
阪神の助っ人 マット・マートンの安打量産が止まらず、シーズンが終わってみれば214安打でイチロー越え。
但し144試合での結果。 試合数(イチローが210安打した時は130試合制)の違いからすれば、純粋な記録とは言い難いとの非難声もありましたが、投手の質や、来日1年目にしての快挙を考えると、十分新記録にふさわしい大活躍だったと言えます。
(但しイチローはインタビューに際し、” アメリカで無名の選手が突然日本に来て、歴史的な記録を残す事は、けっして歓迎すべき事ではない・・” と、日本球界に対し苦言を発しています。)

2003年 MLBドラフト1位でレッド・ソックス入りすると、2005年にはメジャーデビューを果たしていますので、非凡な打撃力があった事は確か。特に左投手に強く、規定打席外ながら打率321(左投手では380)と結果を残し、2006年より外野レギュラーに固定。 144試合に出場し、打率297 13本塁打と活躍します。

しかし・・ そこはメジャー層の厚さ。安打は打てるが長打力に乏しいマートンは、徐々に出番を失い、ついにはマイナー落ち。アスレチックスに移籍するも3A止まり。2009年にはロッキーズに移籍し3Aで大活躍。メジャー再昇格するも、外野レギュラー陣の好調が災いし、結局は控え止まりという不遇・・・。
そんな眠れる逸材に目をつけたのが阪神でした。(駐米スカウトのシーツから、”日本向きの好選手がいる” との連絡がきっかけ)

2010年に来日すると、まずは日本人大老たちの辛口評価を受ける事に・・・。 特に守備では慣れないセンターに戸惑うところを酷評。 毎回思うのですが、日本人の評論家って、来日早々の外人選手に対する見方や角度がワンパターンで、あら捜しをしては、「あいつは〇〇だから通用しない」といった酷評を繰り返します。
しかしマートンは別格。徐々に日本野球に適応しだすと安打を量産。 30発、40発のホームラン・・ とはいきませんが、終わってみれば144試合全てに出場し、日本新記録(当時)となる214安打 17本塁打 91打点 打率349 更に盗塁11 と大活躍。
以後、6年間の阪神在籍で、最多安打王3回、最多二塁打王1回。6年連続二桁安打を放ち、1020安打を記録。打率3割以上4回。 2014年には打率338で首位打者にもなっています。

こんな記録的な活躍を見せる一方、契約改正でのトラブルも多く、3回の退場処分を受けた事も・・。(特に目立つのは不服の際、相手を挑発する態度。日本球界の審判に対する不信感が強く、よくトラブルを起こしています)
これは日本球界のレベルに対する評価も原因かと思われます。
(マートンは日本野球レベルについて、”メジャーより下、3Aより上。4Aだね!” と語っています。)

2015年は右太もも痛にて早々に離脱。打撃不振にてスタメン落ちも経験。
こうなると高年棒のマートンに対する評価はガタ落ち。 阪神はシーズン終了を待たずして戦力外構想を表明。
2016年からカブスのマイナーに。 天性の打撃力も、34歳(H28・3時点)という年齢からすれば、再起は難しいとも思われますが・・・。 
(日本ファンに対する対応の良さや、日本文化を受け入れる姿勢があり、退団を惜しく声も多々。牛丼大好き。ラーメンや寿司も大好きというマートン。 新天地でも頑張ってほしいものです。)

 = 通算成績 =
(メジャー)  272安打   29本塁打   112打点   10盗塁   打率286
(日本)    1020安打   77本塁打   417打点   27盗塁   打率310
首位打者1回  最多安打王3回  ベストナイン4回  月間サヨナラ賞1回                        シーズン最多安打214  連盟特別賞1回(日本記録となるシーズン最多安打による表彰)
シーズン猛打賞24回(外国人選手タイ記録)  シーズン最多出場1回  シーズン最多打数1回
シーズン最多塁打1回  シーズン最多犠飛1回  オールスター出場4回

伝説のプロレスラー  棚橋 弘至

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2


今、隠れプロレスブームとの事。 
筋肉隆々でイケメンのレスラーが増え、器用に高度な技を使いこなすのですから、世の中の女性が熱中する気持ちもわかります。 その結果、「お持ち帰りギャル」 が急増。 これって、ファンの女性が身体をプレゼントするサービスなんだとか。 花束だの手作りお菓子なんて時代遅れ。 もはや世も末って感じ。
(このサービスはアメリカマットでは普通になっているそうで、あのマサ斉藤も女不足に困らなかったとの事。)

そんな時代背景が原因か・・・ イケメンレスラーの「性」失態事件が相次いています。
その一人が棚橋弘至。 事件は2002年11月28日午前10時頃発生。
当時、交際中だったタレント・原仁美と別れ話が元で、背中を2ヶ所刺され大騒ぎ。
刃渡り13cmの料理ナイフは、棚橋の首下から肺にまで達しており、あと数センチ上だったら命を落としただろうという重傷。 原因は別れ話を言い出した棚橋に対し、原の 「棚橋さんを他の女にとられたくなかった」 という女嫉妬だと言いますが、東京地裁は 「とられたくないという身勝手な理由ではあるが、棚橋さんの言動も配慮に欠けていた」として、原に対し、懲役3年 執行猶予4年(求刑懲役5年)の判決を下し、「内面を磨いて更生すれば、おのずとあなたを必要とする相手に巡り合えるでしょう」 と励ます一面も。
このやりとりからして、棚橋のプレイボーイ面が世間に知れ渡ってしまいました。

そんなお騒がせ男・棚橋ですが、2003年2月に復帰すると、4月にIWGP初代U-30無差別級王者、6月にIWGPタッグ王者(パートナーは吉江)、11月にはGHCタッグ王座(パートナーは永田)を獲得。 
ビルドアップされた肉体で人気者となり、ついには新闘魂三銃士(柴田、棚橋、中邑)として売り出される程に。
以後、怪我にも耐えて、計7回のIWGPヘビー王者に君臨。 特に5度目の王者(56代)では、同タイトル新記録となる11連続防衛に成功。 プロレス大賞での重賞常連となり、「100年に一人の逸材」 「太陽の天才児」 と称されるまでに。

1976年11月13日生まれの39歳。(H28・3時点)
身長181cm 体重103kg。 藤波から伝授された数々のドラゴン殺法をはじめ、ハイフライフローが決め技。
投げ技、絞め技、蹴り技、空中技・・・ なんにでも対応できる天才児。 そして爽やかな一面も。
昭和が終わって28年目。 プロレスもホント、変わりました・・・。
Viewing all 1423 articles
Browse latest View live