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伝説のプロレスラー  風間 ルミ

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女子プロレスのルーツはストリップ・・・ と言われています。 
アメリカでは1930年代にはすでに興行されていたようですが、日本では1948年(昭和23年)、進駐軍を楽しませる余興として行われた記録が残っています。
昭和30年代に入ると、ストリップ劇場の他、バーや舞台の余興としても行われるようになり、女性エロスの極限とも言われました。 (この頃の女子プロレスは、太ももにつけたガーターを奪い合ったり、水着の脱がせ合いを行うものであり、プロレスとは名ばかりでした。)
そんな女子プロレスも1970年代に入ると、実力派レスラーの出現によって表舞台にたち、現在に至るような本格的プロレスを展開するようになります。
女子プロレスラーに、どことなくエロリズムっぽさが求められるのは、こういった過去の流れがあるから??でしょうか。

風間ルミは格闘系(シュートボクサー)のプロを目指す中、その可愛らしい容姿が話題となり、グラビアやTVで大人気。 1986年(昭和61年)、ビューティ・ペアのジャッキー佐藤のスカウトを受け、全日本女子プロレスから独立した「ジャパン・女子プロレス」に入団。 格闘経緯も手伝って、「ジャパン四天王(ジャッキー佐藤、ナンシー久美、神取忍、風間ルミ)」 として活躍します。

1992年(平成4年)、ジャパン女子プロレス解散に伴い、LLPW(レディース・レジェンド・プロレスリング)を設立し、社長に就任。 同時にタレント業も行う等、プロレスと芸能界の二足の草鞋を履く人気者に。
その為、アイドル・レスラーのような扱いを受けますが、実際はシュートにも対応できる実力派であり、技もバリエーション多く、女性ファンのみならず男性ファンからも支持されました。

そんな風間が2005年あたりからAV出演に走り出し、2010年 「狂った果熟 芸能人 風間ルミ」で本格AV出演として話題に・・・。 身長153cm 体重62kg B99 という太っちょ体型や〇〇〇シーン、本当に見たいって人はこの手のマニア(笑)

1965年11月28日生まれの50歳。(H27年時点)

伝説のプロレスラー  ダグ・ファーナス

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プロレスラーになる者の過去を見ると、日本人なら空手、柔道、レスリング出身者が多く、一昔前なら相撲、ボディビル、ラグビーあたりってところ。 
他にもプロ野球のジャイアント馬場、サッカーの蝶野正洋等、格闘技以外の者もポツポツ。
アメリカ人の場合は圧倒的にアメリカン・フットボールとレスリング。 ボクシングやボディ・ビルの他、プロ野球出身のボボ・ブラジル等、異色スポーツ出身者も多数。
そんな中、ダグ・ファーナスはパワー・リフティング出身。 簡単に説明すると、バーベルを使って重量挙げを競うスポーツ出身という事です。(元々はフットボール選手との掛け持ちでしたが、怪我をしてフットボールを辞めた後はパワー・リフティング一本に。1986年にプロレス入りした後もパワー・リフティングは継続。)

身長180cm 体重115kg と標準的な体格ながら、パワー・リフティング世界記録を19回も更新した怪力はパンパないもので、ロープにふられまいと踏ん張ったレスラーが、無理やり投げられる事もしばしば。 
ベンチプレス278kgと言いますから、あの小錦やアンドレ・ザ・ジャイアント、昔のレスラーなら ”人間空母” ヘルスタック・カルホーンが持ち上げられる事に・・・。 その奇跡の怪力ぶりに驚いた川田は、ロープの受け身を損ねて背中を強打した事もあるとか。
更にファーナスの凄さは跳躍力とスピードにもあり、バック宙返りをしてのドロップ・キックやスピーディーなフランケン・シュタイナー、空中一回転させる投げっぱなしジャーマンは、ファンから絶大な支持を得ました。

ただ・・ 凄さの反面、一流レスラーに必要な 「売り」 に欠けたもの事実。
ファーナスが頻繁に登場した頃の全日本プロレスは、スタン・ハンセンを筆頭に190cmを越える大型レスラーが多く、その巨体から繰り出す大技にこそ説得力が求められた為、一つ一つの技は合格点でも、トップレスラーとまでには至らなかったように思えます。

事実、全日本プロレスから本場のWWEに戦場を移すと活躍の場を失い、WWE解雇された後はECWに移りタッグタイトルを獲得するも、人気面はもう一つ伸びない有様・・・。
結局、インディー団体に活躍の場を移すも大成する事無く40歳にして引退。 社会福祉士(病院や施設で働く相談員の資格)を取得し人生の再出発を行っていた時、パーキンソン病が発症。
2012年3月2日、50歳という若さで永眠。 発見された時、すでに死後数日もたっていたそうです。 死因はパーキンソン病に伴う合併症により起こる心臓発作ではないかと言われます。

身体能力抜群でもトップスターになれない世界・・・ これが 「プロ」 というものなのかもしれません・・・。

伝説のプロレスラー  神風「KAMIKAZE]

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昭和30年代、プロレスごっこで怪我をする子供が続出し、新聞が社会問題として取り扱った時、スーパースターの力道山はTVに出演し、「プロレスは鍛え上げた者だからできるんです。皆さんは絶対に真似をしないようにしてください。 TVや雑誌で楽しむだけにしてください。」 と訴えました。
そのくらいプロレスは危険でありハードであり、見よう見まねでふざけ合いすれば、大変な大怪我につながってしまいます。
その事が一番わかっているのはレスラー自身・・・ のはずなのですが、SWS解散後の谷津嘉章は新団体SPWFを立ちあげるにあたり、学生や社会人といった一般人も試合に参加できるよう、試合構成を1部(プロ)、2部(アマチュア・社会人)、3部(素人)とわけ興行を実施。 女子の部まで作り、危険技の禁止もなく、素人たちが好き放題・・・。
内容的に無理がある上、たとえ3部であろうと、試合中の事故や怪我は自己責任をいう無責任ぶりが批判対象の的となり経営難に・・・。 そんな状態を打破しようと、谷津自身がメジャー団体のリングに傾きだした結果、更なる傷口を広げる事となり崩壊します。

神風(KAMIKAZE)は、そんなSPWFプロレスの出身。 1994年、結果的には谷津を見限り退団。 新団体 ” レッスル夢ファクトリー” にて活動した後、大日本プロレスに移籍。 2002年にフリー経由でZERO-ONEに参加。身長185cm 体重115kg の恵まれた体型を買われ、橋本真也のタッグ・パートナーに抜擢されます。

真面目な努力家で人一倍気性が激しい反面、ファンサービスも抜群。
試合後、どんなに疲れていても、サインや記念撮影を求められると、出来る限り応じようとされます。
そんな神風、最近のプロレス事情には苦言がある模様。 それは体格差による階級が崩壊している現状について。 大小様々な団体が生まれた結果、レスラーが飽和状態となった上、各団体のスタイル違いに関係なく自由参戦が増えた結果、ヘビー級がライトクラスと戦う事もしばしば。 
ヘビーもジュニアもライトもそれ以下クラスもが入り乱れて戦う事は、ヘビーの立場から言わせば無茶苦茶だと訴えます。 これに対し反論するレスラーも。 日高郁人は 「身体が小さくても、急所にいいもの食らわせたら倒せること可能だ。 高田さんが北尾さんを蹴り倒したように・・・」

得意技はムーンサルト。巨体ながらこの技にこだわり、ファンからは 「Mr・ムーンサルト」と呼ばれています。

伝説のプロレスラー  井上 貴子

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女子プロレスの世界は、「いじめ・しごき との闘いの世界」・・・? 
大物OBが集まって行われた ” 女子プロレスの今だから話せるトーク会 ” において、ダンプや井上貴子は次のような話をしています。

〇 いじめやしごきは、その時のプロレス団体特有なものであり、ブームの時は少なく、ブームが下降線となると激しくなったように思う。(ダンプ)
〇 女の世界なので、軍団抗争うんぬんではなく、お互いの相性とか好き嫌いによって、いじめの差が出てくる。酷い人は、朝の挨拶をしただけで怒り出し、練習の時、顔面に蹴りを入れられた事もあった。(ダンプ)
〇 私の頃は、クラッシュ・ギャルズ人気が凄くて年間試合数が多かった分、先輩たちも忙しくて、流石にいじめやいびりをする時間がなかったみたい・・(堀田)
〇 逆に私の頃は、” 女子プロレスには、理不尽な上下関係や、いじめ・しごきがある ” といった情報が流れていて、それを承知で入団した分、やられてもスルーする事ができた。(井上)
〇 試合中、たまたま起こるアクシデント(凶器の椅子や竹刀が当たったり)に対し、それなりのリアクションで応じないと、後で相当な叱咤を食らった。 そういった方が(練習中よりも)辛かった。(井上)
〇 その他・・・

いじめられ、辞めようとすると、「頑張るんだ!」「御飯でも食べに行こう!」との優しい言葉・・・。
この矛盾?のような繰り返しを乗り切る事で、一人前の女子レスラーに育っていったというのですから、女子プロレスの世界は男子以上に、悩み・苦しみ・努力・根性 が必要。 
「所詮、女子のするプロレス」 なんて馬鹿にする人がいましたら、大間違いに気付いてほしいものです。

井上貴子は1988年(昭和63年)に全日本女子プロレスでデビュー。
女子では珍しいレスリング経験者の為、それなりの下地はあるものの、スリムな体型に長身(163cm)、整った顔立ちが評判を呼び、「アイドル・レスラー」 として写真集まで発売。 1992年には歌手デビュー。

しかし・・・ 個人的には多忙な生活ながら、クラッシュ人気が終了後の会社(全日本女子プロレス)経営は下降。
それが理由なのか? 1994年、オールヌード写真集を発売。
1999年に全日本プロレスを退職。 翌2000年には、ヘア・ヌード写真集を発売。 

どうしても人気女子レスラーって、こっちの道に流れてしまうみたいです(悩) 
色気やエロスは、いつの時代になっても ”女の武器” ってことなのでしょうけど。 まあ、見た目が悪い方は、この武器も使えませんから、これは生まれ持った必殺技ってとこですね(笑)

伝説のプロレスラー  グレート(ボリス)・マレンコ

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「デスマッチの本場はテキサス」と言われる通り、テキサス人の気性の激しさは凄まじく、あのアントニオ猪木ですら、「背をむければナイフが飛び、囲まれたらリンチを食らう」と恐れた程。
”鉄の爪” フリッツ・フォン・エリックは、顔面や胃袋をつかみあげ、相手を悶絶させる事から絶大なる支持を受け、全盛期にはエリック王国を開いた事で有名です。 残酷、残虐な程、ファンが熱狂するテキサス・・・。 
そんなテキサスですら、あまりに過酷で残酷な事から敬遠されるのが ” チェーン・デスマッチ” ・・・。
長さ1m~2mのチェーンをお互いの腕につけ、絶対に逃げる事が許されない状況だけでも恐ろしいのに、チェーン自体が武器になるわけですから、確かに恐怖のデスマッチ。 そんなデスマッチ王国・テキサスにおいて、「チェーン・デスマッチの鬼」 と言われたのがボリス・マレンコ。 後のグレート・マレンコです。

1924年(大正14年)、アメリカ・ニュージャージー州生まれ。 1944年(昭和19年)プロレス入りとの事ですが、生まれ、プロレス入り説共に異説(1933年説)があるのは、いかにもアメリカ人らしい話。 
ただ間違いないのは、1961年(昭和36年)に、ボブ・ガイエルとのタッグで、AWA世界タッグ王者に君臨した事。 その他、NWA系のローカルタイトルを続々と獲得。 ついには野生児・バディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級タイトルや、ブルーノ・サンマルチノのもつWWWF世界ヘビー級タイトルにも挑戦。 
当時のアメリカマット事情はプロモーターの結びつきが強く保守的。 結果、AWA、NWA、WWWF という巨大3マーケットで大暴れするレスラーは稀。 いかにマレンコ人気だったかがわかります。
但し、マレンコ人気は、あくまで悪役人気。 デスマッチ抗争の他にも、キラー・カール・コックスやジョニー・バレンタインとヒール軍団を結成。 流血を恐れない闘いぶりで恐れられました。

1965年(昭和40年)、日本プロレスにて初来日を行うも、ちょうど力道山が亡くなり、馬場時代に移る狭間だった事もあり名勝負を残すには至らず。 また、ロシア人ギミックでもある ”グレート・マレンコ” というネームが、日本人ウケしなかったのも、以後、日本プロレスからお呼びがかからなかった理由と思われます。 (当時のアメリカ・マット界において、ソ連や日本人を退治するパターンは根強く残っていました)

しばらく時を経て、1973年(昭和48年)に全日本プロレス、1974年(昭和49年)に新日本プロレスに参戦。
日本のファンは、「デスマッチの鬼」の異名から想像される評判のラフ・ファイトを期待しますが、残念ながらすでにレスラーとしてのピークが過ぎており、これまた名勝負を残すには至らず。

1994年に白血病にて永眠。 61歳と言われますので、この場合なら生まれは1933年となります。
晩年はレスラー育成にも尽力され、ヒール・マネージャーとして活躍。 すぐに怒って葉巻を押し付ける事でも有名に。 最近のプロレス・ファンなら、息子のディーン・マレンコやジョー・マレンコの方が印象深いかも。

伝説のプロ野球選手  山本 昌(昌弘)

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身長188cm 体重98kg(現役晩年)という大きな身体を伸ばして投げ込む速球は、最速で143km・・・。
通常の平均速度133km前後 調子がいい時で138km前後 という球速ながら、落差の大きいスクリュー・ボールを決め球に、実に32年間(50歳)もの間、中日一筋で投げぬき、通算219勝(165敗)を挙げた名投手。

日大藤沢高校時代は甲子園出場ならず・・ 激戦区・神奈川において、毎年、準々決勝あたりで敗退(2年、3年)する ”ちょっと優れた程度の投手” ながら、3年時に行われた韓国代表との親善試合に、神奈川県代表に選ばれ好投。 観戦していた中日スカウトの目にとまった事から1983年(昭和58年)のドラフト会議において、中日より5位指名を受け入団します。

大型左腕という事で球団の期待(背番号はエース格がつける34番)が高まる中、伸び悩む球速と、総合的なレベルUPを図る為、中日が提携していたドジャーズ経由で1A・ベロビーチ・ドジャースに1年契約で野球留学。
しかし、ドジャースのコーチからは 「投手はムリ。サイドスローに転向か、もしくはトラック運転手に転向すべき」 といったキツい言葉を受け落ち込み気味の中、同僚がキャッチボールで遊んでいたスクリュー・ボールを見て開眼。 マスター後、決め球として使うと毎試合好投の連続。 シーズン途中にして、メジャーからも注目される投手に急成長します。 (1A・ドジャースでの成績は、13勝 7敗 防御率2.00)

ところが・・ 日本における中日投手陣はコマ不足状態。その為、成長著しい山本は予定を繰り上げ帰国する事に。 6試合先発し、48.2イニング 5勝(0敗) 防御率0.55 という抜群の成績を残し、1989年以降は中日のエースに君臨。 投手最大の名誉賞である 「沢村賞」 をはじめ、最優秀投手賞、最多勝、最優秀防御率、奪三振王 といった投手タイトルを獲得した他、2006年9月16日 阪神戦において、41歳1ヶ月にしてノーヒット・ノーランを達成。 2015年 実に50歳になるまで投げ抜きました。

山本の凄さは、前例がない32年もの間、投手という過酷なポジションを投げ抜いた事以上に、「怪我のない」「故障をしない」投手であった事があげられます。 
練習熱心でも有名でしたが、よほどしっかりした自己管理がなければできません。 これは金田正一や工藤公康といった長生き投手にも共通している事。
球速がなくても、それを補える決め球を見つけ、自分のピッチングを続けていければ山本のような生き方も可能という、伸び悩む若手投手の見本のような投手だったと思います。

 = 通算成績 =
 219勝  165敗  0ホールド  5セーブ  2310奪三振  防御率3.45
 沢村賞1回  最優秀投手賞2回  最多勝3回  最優秀防御率1回  奪三振王1回  月間MVP8回
 ベストナイン2回  最優秀バッテリー賞1回(中村)  ノーヒット・ノーラン1回(阪神)  セ・リーグ功労賞
 セ・リーグ特別賞  優秀JCB・MEP賞1回  ジョージア魂賞3回  オールスター出場6回  最高勝率1回
 23年連続勝利(タイ) セーブ最年長記録(41歳2ヶ月)  実働年数29年(タイ)  最年長登板(50歳57日)
 シーズン最多先発2回  シーズン最多完投1回  シーズン最多完封2回  シーズン最多投球回数2回
 その他・・・ 多数

昭和レトロ お咲希さん 缶下駄遊び

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平成28年1月3日(日) 晴れ
本日の松山市は16℃と、4月中旬なみの気温。 昨年から続く暖冬状態。 「何か地球に異変が??」 なんて思ったりしますが、そんな難しい話、3歳4ヶ月の ” お咲希さん” には関係なし。
ポカポカ陽気に誘われて、昭和の遊びの代表格である 「缶下駄遊び」 に夢中。 通りがかりの近所の方が、「懐かしい」 と言っては振り向きます。 みんなに相手にしてもらうので調子にのった ” お咲希さん” 、わざとこけては笑いを誘う大サービスぶり。 こんな遊びなら 「ただ」 で出来るので親は大助かり。 
ちなみに今年のお年玉は6万円也。 3歳のくせに、ちょっともらい過ぎなのでは?

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空き缶の上両側に穴をあけ、ひもを通したら完成。 竹馬と違って、別に面白い遊びではないのですが、3歳児には大ウケ。 いかにも昭和って感じの遊びです。

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楽しそう・・・ 実に楽しそうです(笑) 父(私)は正月休も今日で終わりかと思うと、気持ちが憂鬱ですけど。 いまだに風邪が治らない私と違って、お咲希さんは毎日元気いっぱい。

伝説のプロ野球選手  井端 弘和

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主なタイトルは、ゴールデングラブ賞7回 ベストナイン5回 ・・・ と聞くと、守備の人といったイメージがつきますが、井端の通算安打数は1912本。 通算打率も281と高く、いかに好守の要的な存在だったかわかります。

中日時代は、荒木との二遊間コンビで人気を博し、地味なイメージのある中日に華をもたせるプレーでファンを魅了。 それだけに2013年の 「第3回 WBC」 においての大活躍は ”意外” とも ”当然” とも言われ、時の人扱いを受けました。
この大会での打撃成績は、18打数 10安打 5四球 4打点 打率556 という素晴らしさ。 一発長打はありませんが、ここぞという場面で勝負強さを発揮。 左打者に滅法強く、腕をたたみながら右方向に打ち返す打撃技術は、けっして目立ちませんが玄人好み。 リストが柔らかく、バットコントロールに優れていればこそのバッティング技術だけに、あの難しい落合監督(当時)から認められた数少ない好打者でもありました。

1980年代、アイドル輩出率の高さから 「アイドル学園」と呼ばれた堀越高校出身。
1992年 第64回選抜甲子園に出場し、7-4で村野工を破るも星陵に4-0と完封敗け。(この大会は甲子園のラッキーゾーン撤去初の大会) 
1993年 第75回夏の甲子園に出場。 西条農を1-0で破るも、鹿児島商工には3-0で敗退。この年は雨が多く、この試合も8回表降雨コールド負けという、やるせないものでした。

身長173cmと小柄な事や、特に甲子園大会で注目を集めた存在でもなかった事から亜細亜大学に進学。
東都大学リーグ1部において、打率290 ベストナイン3回選出の実績が評価され、1997年のドラフト会議において、中日ドラゴンズより5位指名を受け入団。 当初は代走や守備固め要員での出場が多かったのですが、得点圏打率の高さや、確実な守備、更に俊足が評価され、入団3年目の2001年にはシーズン140試合全てに出場。 以後、レギュラーとして中日内野陣を支えました。

惜しむは2013年オフ、師匠筋でもあった落合GMより限度額をはるかに越える大減棒を提示され態度を硬化。
結果、リストラ要員扱いを受け、巨人軍に移籍。
春先でのWBCでは素晴らしい活躍をしていただけに、いくらシーズン不振とはいえ、この生え抜き選手までもが辛口審査にてチームを去るとは思っていなかった中日ファンは驚き&ガックシ。
当然ながら選手層の厚い巨人軍において、外様ベテランの活躍の場など限られており、2000本安打目前にして引退・・・。

 = 通算成績 =
 1912安打  56本塁打  410打点  149盗塁  打率281
 ベストナイン5回  ゴールデングラブ賞7回  オールスター出場8回  オールスター優秀選手賞1回
 サイクル安打1回  アジアシリーズMVP1回  月間サヨナラ賞1回  シーズン最多犠打1回
 シーズン最多試合出場6回  シーズン最多打席数2回  WBC日本代表(2013)
 WBCベストナイン  WBC・2次ラウンドMVP1回  シーズン遊撃手最高守備率8回

伝説のプロレスラー  ダイナマイト・関西(ミスA)

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ダンプ松本、ブル中野、クレーン・ユウ・・・ 体重が100kg近い大型女子レスラーは幾人もいますが、「動けるデブ・レスラー」の筆頭と言えばダイナマイト関西が一番かもしれません。

中学時代は、身長173cmという長身を生かしてバレーボール選手。 卒業後、恵まれた身体を活かすべく、16歳にして女子レスラーを目指し、全日本女子プロレスのオーディションを受けるも不合格。
おりしも同時期、ジャッキー佐藤を中心にジャパン女子プロレスが結成されたことから、ジャパンのオーディションを受けたところ合格。 1986年(昭和61年)、” ミスA ” というグネームでデビューすると、圧倒的な体格差で注目を集め、ついにはアメリカWCWにも出場。 
更に当時の人気映画 「ビーバップ・ハイスクール」 にも、” スケ番・マンモスお妙 ” 役で出演。 徐々に知名度が全国区となっていきます。

しかし・・・ ジャパン女子プロレスは1992年に内輪もめと経営不振により解散。
新しく設立されたJWPには当初から参戦し、リングネームもダイナマイト関西に変更します。

JWPは単独興行よりも、団体抗争を売りにした為、ダイナマイト関西も全女マットに登場。 アジャ・コングとの激闘を繰り返し、ついには全女レスラーではないにもかかわらず ”第41代 WWWA世界シングル” を獲得。
更に尾崎魔弓とのタッグで、全女の至宝タイトルである、WWWA世界タッグを奪取。
この頃になると、体重も90kg近くとなり、リングネームの ”ダイナマイト” のイメージと、必殺技の 「スプラッシュ・マウンテン(相手を逆さのまま抱え上げ、マットに叩きつける技)は評判を呼び、女子の強豪として人気者となりました。

そんなダイナマイト関西も、今年47歳となられます。(1969年 ”昭和44年” 生まれ)
団体の分裂や軍団の独立等にて弱小化した女子プロレス。1990年代に活躍したレスラーの高齢化によって、更なる低落にならない事を祈ります。

伝説のプロ野球選手  渡辺 秀武

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1965年(昭和40年)~ 読売巨人軍は川上監督指揮のもと、ONをはじめとする有能選手を有し、伝説のV9時代が始まります。 
V9の時の主力投手といえば、初制覇時は城之内邦雄、中村稔、金田正一、宮田征典・・・ 二連覇以降は堀内恒夫、高橋一三、そして渡辺秀武・・・。 
まだローテーションが確立されていなかった時代だけに酷使されやすい事情もあり、宮田征典のようにすぐに消えていく者も多い中、渡辺秀武は1966年(昭和41年)から、1972年(昭和47年)における巨人軍所属において、6回の二桁勝利をマーク。 更に1970年(昭和45年)には23勝を挙げるとともに、5月18日 広島戦 において ” ノーヒット・ノーラン ” を達成と大活躍。 V9・巨人第三次黄金期を支えました。

巨人V9を知る人は、あまりにもONの活躍が凄まじかった事から、「打力のチーム」と言われる方が多いのですが、実は投手中心に徹底した ”守り野球” のチームでもありました。
刻々とかわる状況下において、こまめに変わる守備シフト。 打球が飛ぶと瞬時連携プレーが行われる緻密さの裏には、川上監督が持ち込んだ ” ドジャース戦法 ” があり、某評論家は、 ” 精密機械のような野球 ” と表現しています。 それだけに1970年におけるV5までの巨人軍は他チームを圧倒。 好守走に助けられる投手陣の成績は、実力以上に高まっていきます。

渡辺秀武は富士高校(静岡県)を卒業後、社会人野球を経て、ドラフト会議が始まる前の1963年に巨人軍と契約。 当時としては超大型の183cm投手として期待されます。
ところがノーコン投手であった事から気が小さく、球威を落としたハーフ球を集めては痛打される繰り返し。
その姿・格好からついたあだ名が、「気の弱いメリーちゃん」・・・。 しかし1966年(昭和41年)以降は球威ある球を活かした投球術が開花した事により、毎年10勝以上が見込める投手に成長しました。

そんな渡辺の不運の始まりは、1973年(昭和48年)におけるトレード移籍から。
無敵を誇っていた巨人軍もV5を境に主力に陰りが見えはじめ、以後は苦戦の連続となっていきます。 その為、10勝投手の渡辺を放出する事で、それに見合う新戦力補充を図りたい巨人軍の方針により日拓(日本ハム)に移籍。 その年は意地の11勝をあげますが以後は低迷。 大洋 → ロッテ → 広島 と渡り歩き、1982年(昭和57年)をもって引退。 

引退後は広島カープの東京駐在スカウトとして敏腕をふるい、23年間にも及ぶスカウト生活を送られますが、2007年8月25日、肺炎をこじらせ65歳の若さで永眠。

ノーヒット・ノーランに縁のある方で、自身も達成していますが、日拓移籍におけるトレード相手であった高橋善正もノーヒット・ノーラン投手。 1968年(昭和43年)には二軍戦ながらノーヒット・ノーランを達成。(未だに一軍&二軍でのWヒット・ノーラン達成者は渡辺のみ)
更に1971年のオールスター戦では、9連続奪三振を奪った江夏豊の後釜を受け好投。 その後の継投投手も打たれなかった事から、初となる 「継続によるノーヒット・ノーラン」 を達成しています。

 = 通算成績 =
 118勝  100敗  0ホールド  8セーブ  1041奪三振  防御率3.35
オールスター出場2回  ノーヒット・ノーラン1回  シーズン最多与死球3回(引退時、通算144与死球は日本記録) 

伝説のプロ野球選手  鬼頭 洋

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名古屋商科大学付属高時代は無名に近い存在ながら、名古屋商科大に進学した後は、速球と落ちる変化球を武器に大活躍。 まだ2年生の段階で、愛知大学リーグ戦に31試合登板し、15勝 10敗 防御率1.31 の成績を残します。 当時はまだ地方大学リーグに対する評価(注目)が高くなかった事もあり、その才能に目を付けた大洋ホエールズが水面下で入団交渉。 その結果、3年時に大学中退をし、大洋に入団します。

入団時の体格は179cm 体重70kg前後。 当時を知る方の記述を引用すると、「見た目、ひょろりと背が高い軟弱さを感じたが、いざ投げる速球は目を見張るものがあり、ミットにおさまると ” ドスン ” といった鈍い音が残る。 その上、カーブもよく落ちた。 左腕でもあり、これは新人王候補だと思ったよ。 事実、大リーグから視察も兼ねてきていたコーチも目をクリクリさせていた。 後は体力面の強化をどうすべきか・・ 課題も多いが将来性を感じる投手だった。」

そんな期待の鬼頭でしたが、初年度の1967年(昭和42年)は11先発しながら 1勝 4敗 防御率3.56 と結果を残せず。 このシーズン43.1イニングしか投げていないように、序盤早々でつかまっては交代の繰り返し。1968年(昭和43年)は2先発で1敗、1969年(昭和44年)は4先発で1勝1敗・・・。 

崖っぷち状態で臨んだ1970年(昭和45年)、制球が安定した事もあり、突如の才能開花を起こし大活躍。
49試合 24先発 13勝 12敗 194.2イニング 151被安打 151奪三振 防御率2.40 という好成績をあげます。 更に6月9日のヤクルトアトムズ戦において、ノーヒット・ノーランも達成。 
弱小球団の為、好投しても負け星が重なりタイトルには届きませんでしたが、翌1971年(昭和46年)も、33試合 20先発 137.1イニング 7勝 12敗 124被安打 102奪三振 防御率2.43 と勝ち星以上の活躍を見せます。

しかし、活躍したのはここまで。 1972年(昭和47年)は、16先発 3勝 8敗 111イニング 防御率3.41と、規定投球回数を下回った上、昨年同様に負け星が大きく上回る散々な結果・・・。
1973年、小山正明とのトレードで、安田泰一とロッテに移籍。 1974年(昭和49年)、3試合に先発し1敗という記録を残し、1975年(昭和50年)オフに引退。

 = 通算成績 =
29勝  41敗  0ホールド  0セーブ  458奪三振  防御率2.88
ノーヒット・ノーラン1回(アトムズ) オールスター出場1回

伝説のプロ野球選手  内匠 政博

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甲子園といえば、桑田、清原のPL学園・・・ と答える方も少なくなってきました。 PLブランドの風化・・・。 名選手たちの高齢化・・・。 清原の粗暴・・・。 色々な原因があるのでしょうが、私の中ではいまだに 「PLの4番は日本の4番」 のイメージが強く残っています。
当時はまだラッキーゾーンがあったとはいえ、清原の甲子園通算13本塁打は奇跡のような数字。
桑田も学制改革以後最高となる20勝(3敗)という恐るべき数字。
世の中、あまりにも凄い二人に圧倒され、KKコンビだけが目立っていたように思いますが、3年時の全国制覇のメンバーは、すべて他校なら4番というメンバーばかり。 その中の一人が内匠 政博です。

1968年(昭和43年)生まれ。 身長170cmと小柄ながら俊足・強肩。抜群の野球センスが買われ、名門PL学園に進学。 1985年(昭和60年)、KKコンビ3年時の全国制覇では、1番センターで出場しています。
卒業後、近畿大学に進学。 関西学生リーグで通算打率293をマークし、べストナインにも3度選出される活躍。
日本生命を経由して、1992年のドラフト会議において、近鉄バファローズから3位指名を受け入団しました。

入団2年目の1994年~1995年にかけ、2年連続でシーズン100試合以上に出場する準レギュラーとなりますが、1996年を境に出場機会が激減。 2000年、一度息を吹き返し52試合に出場しますが、以後出番がないまま2002年をもって引退。 

1965年(昭和40年)~ 巨人軍は無敵の9連覇(V9)を達成します。 その間、打撃三冠の殆どをON(王、長嶋)が独占。 更に盗塁も柴田・高田等の巨人勢が中心に。 どうしても、目立つ選手に注目が集まってしまいます。 しかし、巨人には他にも、土井、黒江、国松、末次・・・ といった名脇役が多数。 王や長嶋は凄いが、9連覇は駒がそろったからできたのだという評論家は実に多いです。
なんだか、1985年のPL学園とダブってしまいます。 (KKコンビ = ON)

 = 通算成績 =
 259安打  10本塁打  70打点  49盗塁  打率253

伝説のプロ野球選手  若生 智男

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1963年(昭和38年)オフに行われた、小山正明(阪神)と山内一弘(大毎)のトレードは ” 世紀のトレード” として今なお語り草となっています。 小山と言えば精密機械と言われた制球力とパームボールを武器に、通算320勝を挙げた大投手。 山内はシュート打ち名人と言われ、通算2271安打 396本塁打を放った打撃人。
当時、どちらもチームの主軸であり、セ・パの顔的存在。 今でいうなら山田(ヤクルト)と柳田(ソフトバンク)が突然トレードされるようなもの。 野球人気が高った当時だけに、大騒ぎになりました。
そんな中、このトレードにより投手陣の補充が急務となった阪神は、同じく大毎の準・エースであった若生智男のトレードも並行して断行。 代償として、マイク・ソロムコを用意。 これにより若生・阪神が誕生します。

若生は1956年(昭和31年)に東北高校より毎日オリオンズ入団。 
身長182cmと、当時としては大柄だった事もあり期待される中、5年間も伸び悩む状態が続きますが、1960年(昭和35年)に開花。 28試合先発登板し、4完投 3完封 196.1イニング 13勝 8敗 防御率2,15 という結果を残します。 
当然、エースの小野正一に並ぶエースとして期待されますが、1961年(昭和36年)は9勝止まりで結果を残せず。 ところが1962年(昭和37年)は30先発登板し、237.0イニングを投げ 15勝 13敗 防御率2.73 と好投。 しかし翌1963年(昭和38年)は、3勝 7敗 と低迷・・・。 
この ”良い・悪い” を繰り返す不安定さが、ワンマンオーナー・永田氏には気にいらなかったのかもしれません。

阪神に移っても若生の不安定ぶりは変わらず・・・。
トレード後の2年間は、防御率こそ3点台前半ながら、1964年=5勝 6敗 1965年=3勝 5敗 ・・・。
ファンが見切りをつけようとした1966年(昭和41年)、142イニングを投げ、10勝 4敗 防御率1.96 と一転して好成績。 
1967年(昭和42年)は防御率2.14と好投するも、8勝 7敗止まり。 1968年(昭和43年)は3勝 5敗と、またも低迷・・・。
ところが1969年(昭和44年)、またも活躍をはじめ、以後三年連続で10勝以上をマーク。

1975年(昭和50年)、安仁屋とのトレードで広島入り。翌1976年(昭和51年)をもって引退します。
通算121勝投手ながら、計21年 3球団を渡り歩けたのは、先発・中継ぎ・抑え なんでもこなせる対応力。
成績以上に各球団は若生を重宝したそうです。 そんな若生に神様がご褒美したのか・・・ 在籍した3球団すべてが優勝経験有。 これって史上初の珍快挙らしいです・・・。

 = 通算成績 =
 121勝  120敗  0ホールド  2セーブ  1396奪三振  防御率2.71
 オールスター出場1回

伝説のプロ野球選手  小川 淳司

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一昨年前、済美高校(愛媛)安楽投手が連戦・・連戦・・と酷使登板をした結果、右腕を壊し、夏の大会は地方予選敗退というニュースがアメリカ国内で報道されるや非難・批判が続出。 「日本の甲子園大会くらいクレージーなものはない」 「甲子園大会なんて即止めるべき。将来有る若人潰しの大会だ」 「甲子園大会を行うのであれば、試合間隔を最低でも中3日以上あけ、投手負担を減らすべきだ」 「真夏の炎天下で連戦とは、子供を殺す気か?」 「学校の宣伝の為、指導者の個人的な名誉や腹金の為の大会」 ・・・ その他、猛烈批判多々。
日本人にとって甲子園大会は、いまや国民的行事であり春・夏の風物詩。 確かに言われる事はごもっともではありますが、ではすぐに中止もしくは全面的な見直し・・・ というわけにもいかないのが現実。
高野連も準決勝あたりに中休みを入れたり、各チームも投手を多く育て、プロ並みの継投策をとったりと工面していますが、阪神タイガースとの日程兼ね合い、夏休み期間での大会、予算的な問題、伝統を重んじる体質・・・ と問題は山積みでもあり、大きな問題解決とは至らないのが現状です。

しかし・・ 日本人がメジャーで活躍する事で、アメリカ球界が日本人をマーケット対象として注目するようになったからこそ起こった問題でもあります。 少なくとも昭和の高校野球ではタブー問題。 エースが連戦、連勝しながら栄冠に輝く美徳こそ高校野球の真髄であり、燃え尽きて泣く姿こそ青春。 それを全校あげて応援するから教育といった「野球道」 の時代、安楽以上の酷使が平然と行われていました。

1975年(昭和50年) 第57回 夏の甲子園大会 の優勝は習志野高校(千葉)。
前年は土屋、篠塚の銚子商業に敗れ甲子園を逃すも、今回は小川淳司投手を擁して甲子園に。
2回戦から出場し、8-5 旭川竜谷  2-0 足利学園  16-0 磐城(先発全員が複数安打達成の快挙)
4-0 広島商業 と破り決勝の相手は新居浜商業(愛媛)。 3試合連続完封の小川でしたが、連戦疲労により右肩痛が悪化。 球威が落ちたところを狙われ序盤3-0とリードされます。 なんとか同点にもちこんでの9回裏、サヨナラ勝ちにより優勝。 全国制覇という偉業の代償は重く、この大会によって小川の投手生命は絶たれました。

中央大学進学後は外野手に転向。日米親善野球大会の日本代表(原、岡田と共にクリーンナップを打つ)に選ばれる活躍を見せ、社会人野球の名門・河合楽器に就職。2年連続で都市対抗野球大会に出場する原動力となり、 1981年(昭和56年) ヤクルトからドラフト4位指名を受け入団します。
一発長打が魅力の長距離砲として期待されますが、そこはプロの世界。トータル的にレギュラー固定には至らず、毎年準・レギュラーとして出場。(1984~85年はレギュラー) 少ない打席数ながら3回の二桁本塁打をマークする等、” いぶし銀 ” として活躍しました。
1991年オフに一度は戦力外通告を受けるもトレード要員として日本ハムに移籍。1992年引退。

2010年、高田繁監督にかわりシーズン途中から代行監督を行うと、チームが上向いた事から指導力を買われ、2011年には正式な監督に就任。 当初は固定メンバーを重視するスタイルによって結果を出すも、不調に陥ったり結果の出ない選手でも使い続ける事によって成績は急降下。2013年、2014年とチーム最下位の責任をとり辞任。 とにかく真面目な性格でファン思い。 あの野村克也もが人柄を絶賛したとか・・・。

 = 通算成績 =
 412安打  66本塁打  195打点  13盗塁  打率236

ケーキは別腹? ”お咲希さん”

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平成28年1月16日(土) 晴れ
やっと冬らしい寒波到来。 松山市の気温、朝は1℃。 庭を見てみたら霜が降って白くなっていました。
天気予報によると、本日の愛媛県は全域にかけ降水確率0%。 寒くともこんな良い天気の中、自宅で過ごすのはもったいないという事になり、急きょ西予市宇和町の実家に帰省。
可愛い孫が帰ってきたと喜んだジジ・ババ様がスポンサーとなり、昼食は八幡浜市の焼肉屋、その後はデザートとして宇和町の老舗有名菓子店のケーキ。 
焼肉屋でガッツリ食べた後なのに、ケーキとなるとはりきって食べようとする ”お咲希さん” には驚きです。
けっこう食べる方なのに痩せ型の ” お咲希さん ” と比べ、私(父)はドンドン ” アンコ ” 体型に・・・。
脂肪燃焼率の差なんでしょうね・・・ 羨ましい限りです。

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    「ケーキは別腹」 と言わん限りの喜びよう。 そんな孫の姿を見て、ジジ・ババ様も満足そう。

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  大きな口をあけて、ケーキの上にのっていたチョコレートをパクリ。 本人曰く、チョコは大好物らしいです。

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手についたチョコクリームも逃しません。 時間はかかりましたが完食しました。


伝説のプロレスラー  納見 佳容

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女優に転身した納見佳容を見ていると、「本当に元・プロレスラー?」 って気持ちになってきます。
下手な女優よりずっと綺麗。 子供がいるとは思えないスタイル。 整った顔とルックス。 
若き日は可愛らしく、三十路過ぎたら女性っぽく・・・ 女子プロレスの世界も変わりました・・・。

しかし現役時代はけっこうハードな試合をこなしており、鬼のような形相で相手につかみかかるラフ・ファイトも展開。 同じくアイドル系レスラー・井上貴子との抗争は有名。 また脇澤美穂とのコンビで3度の全日本タッグ王者に輝く他、全日本シングル王座に2回、オールパシフィック王座に1回君臨。
大技だけでなく細かな技も使いこなす等、運動神経の良さもあり、「実力ある美女」 として注目されました。

アイドル系レスラー4人とユニットを結成し ” キッスの世界 ” でCDデビュー。 
その見た目とのギャップがウケて、納見目的の男性ファンが急増。 っとなるとお決まりなのが写真集発売。
2001年に初出版されると評判を呼び、2003年12月24日 「Know Me? 」 ではフルヌードを披露。
久光製薬のポスターにも起用される活躍ぶり。 この時のキャッチコピー 「 こう見えても彼女はプロレスラー」 は納見らしさを上手く表現しており、けっこう評判になりました。

2004年4月18日、前川久美子戦をもって引退。
実は初めての引退ではなく二度目の引退。 一度目は全日本女子プロレス入りした翌年。 しばらく一般社会人として過ごし、1997年に復帰した経緯があります。
2015年時点、流石に三度目の復帰はないようですが、まだ39歳。 復帰を期待する男性ファンも多いのでは?

伝説のプロレスラー  デイビー・ボーイ・スミス

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2代目タイガー・マスクがジュニア戦線で活躍?していた時、ジュニアらしからぬ体格に、「本当にジュニア?」って思った方も多かったと思います。 これはデビュー当時のジャンボ鶴田にも言える事ですが、本来ジュニア・リミットは99.8kg未満(220ポンド)のはず。 ところが全日本中継では、ジュニア・リミットは105kg未満と紹介された事があるので驚きです。
まあ、ボクシング等と比べて、このあたりの曖昧さがいかにもプロレスなのですが、新日本プロレスに初参戦した時のスミスも103kgだったとの事。 
そのあたり、けっこう新日本も曖昧で、実況の古館が体格の紹介ができず、適当にはぐらかず場面も(笑)

初参戦時は覆面レスラー 「バンピート」 を名乗って大暴れの予感。 NWA世界ジュニアヘビー王座決定戦では、ザ・コブラのライバルとして期待される中、試合前に正体を明かしてファンを驚かしました。
っというのも、ザ・コブラは初代タイガー・マスクの後釜的な存在 (実際は初代タイガーがデビューした同時期、すでにメキシコマットで活躍していました) として認識されていましたから、バンビートはブラック・タイガー的な存在になるのだろうと予感していたファンが多かったわけで、その対抗馬がいきなり自ら覆面外しとは、誰も予測できない事でした。

そのスミス、あのダイナマイト・キッドの従兄弟にあたり、キッド同様にビルドされた肉体で大暴れ。
必殺技のツームストン・パイルドライバーの威力は凄まじく、主役であるはずのコブラがタジタジになる事もあり、何故か二人の対戦は名勝負にならず・・・。 
コブラの失敗はスミスを起用した事だというファンが多かった事を記憶しています。

日本ではジュニアで戦いながら、アメリカにもどるとしっかりヘビー級で戦うあたりは、流石、合理主義者。
1984年に北米ヘビー級王者となると、そのまま正式にヘビー級転身。 以後、日本マットを全日本プロレスにかえ、キッドと共に活躍?しました。 (但し、名勝負らしきものは?? 当時のファンは、新日本から全日本、又は全日本から新日本と登場マットがかわるだけで大騒ぎでしたので、スミス&キッドが全日本というだけで、十分な話題がありました)

1985年(昭和60年)~ WWFに進出。 キッドとのコンビ名は 「ブリティッシュ・ブルドックズ」・・。
1986年にはWWF世界タッグも獲得。 絶大なる人気者に・・・。 しかし何故かスミスはキッドに対して攻撃的。
「キッドが交通事故にあったから出場できない」 といったガセ情報を流す等し、二人は疎遠状態に・・・。

2002年、ステロイド剤中毒による心臓発作で他界。 39歳という若さでした。
終始、スミスという人物は謎の多い人物だったように思います。

伝説のプロ野球選手  馬原 孝浩

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「ワシは全盛期に、160km以上の球を投げとった」と豪語するのは金田正一。
まだスピードガンのない時代ですので、本人がどう言おうが勝手ではありますが、後にフォームから分析したところ、152km前後という結果だったとか。(これもあくまでCP分析ですので、信憑性に乏しい話ですけど。)
その他にも、沢村栄治、スタルヒン、米田哲也、江夏豊、尾崎行雄、江川卓(高校2年当時)、山口高志、村田兆治等、160km伝説は続きますが、どれも当時の打者の体感速度による評価。 
よく故・千葉茂が 「スタルヒンは、控えめに評価しても155kmは出とった!」 と語っていましたが、そもそも千葉の時代に、そんな球速測定器は存在したいのですから、体感速度には人によってかなりのズレが生じる事は歪めません。

そんな速球も近年は優れた球速測定器の開発によって、かなり正しい数字をはじき出すようになりました。
現在の速球王は日本ハム・大谷の162・5km。 他にも150km中盤を投げる投手は多く、投手に関しては世界一とも言われる日本プロ野球界。 そんな質の高い投手陣においても、「全盛期の馬原が一番」 と評価する打者が多い事は、意外と知られていない事実です。

熊本市立・必由館高校 → 九州共立大学に進学。(必由館はH15年・夏の甲子園大会に出場した事がある地元に隠れた強豪校。九州共立大学には新垣がいた)
日米親善大学野球や世界大学野球大会では日本代表となり、大学通算30勝5敗という驚異的な実績のもと、2003年のドラフト会議において、ダイエーより自由獲得枠で指名され入団。
最速158km。 大きく鋭いフォークやカットボールが武器。

期待の1年目は、開幕4戦目の西武戦に登板し初勝利を挙げるも体調を崩し3勝どまり。
翌年から抑え(リリーフ)にまわると速球とフォークが冴え、2005年=22S 2006年=29S を挙げる活躍。
2006年にはWBC日本代表にも選ばれます。(出場機会はなし)
そして2007年、54試合登板 67.1イニング 防御率1.47 38セーブ という数字を残し、セーブ王のタイトルを獲得。 2008年は右肩炎症で成績が低迷しますが、2009年=29S 2010年=32S と守護神として活躍。 その剛球ゆえに、同僚の川たちからは 「メジャーのリベラの和製版だ」 として 「マベラ」 というあだ名が付けられた程。(他にも、各主軸から ”歴代最高の投手” と評価され、メジャースカウトが来日した事も。)

しかし・・・ 剛球+フォーク投手は、想像以上に身体を酷使する為、故障が多いのも事実。
馬原も例外ではなく、2011年以降は右肩の故障に悩まされ、2013年、人的補償でオリックスにトレード。
2014年には中継ぎとして32ホールドを挙げる活躍を見せますが、2015年は打ち込まれる事が多くなり、左膝故障も重なり二軍落ち。 オフのダウン年棒提示に同意しないまま引退。

歴代7位の182Sをマーク。 これ程の実績を残した投手なら、派手やかな引退会見等が行われるはずですが、ひっそりと消えて行ったあたり、馬原の心境がわかるというものです。

 = 通算成績 =
 23勝  31敗  47ホールド  182セーブ  455奪三振  防御率2.83
最多セーブ王1回  オールスター出場3回  JA全農GoGo賞3回(救援)  WBC日本代表(2006、2009)

伝説のプロ野球選手  白武 佳久

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1980年代の広島カープは、球界を代表するような名投手が多数おり、 「投手王国」 と言われました。
その上、好打者も育っており、常に優勝が狙えるチームに変貌。 広島のあまりの強さに、他チームファンはブーイングの嵐。 現在に至るまでの間、広島カープが一番充実していた時期かもしれません。

特に北別府、大野、川口 の3本柱を軸としたローテーションは盤石。 
それだけにローテの谷間を埋める投手は、一見地味にも見えますが、白武佳久は、ここぞという時に登板しては好投をするので、影のエースとして重宝されました。

長崎県・佐世保工業時代、第60回(1978年)夏の甲子園大会に出場。
この大会はPL学園が決勝で高知商業と対決。 9回表が終わり2-0で高知商リード。 誰もが高知商の優勝と思った9回裏、PLは3点を奪い劇的な逆転初優勝。 「逆転のPL」として高校野球史に名を残した印象深い大会です。 佐世保工業は8月12日の二回戦から出場。名門・中京(愛知)の前に6-1で敗戦しますが、身長180cmから投げ込む白武の速球は評判となり、東都大学リーグの雄、日体大に進学します。

当時の東都大学は東海大学・原辰徳フィーバーのまっさ中。 しかし白武の剛腕は東海大学も破る凄さで、終わってみればMVP、最優秀投手、ベストナインとタイトル独占。 大学4年間の通算成績は45試合 26勝 8敗 防御率1.71 奪三振259 という驚異的なもの。
当然ドラフトの目玉となり、1978年、広島カープよりドラフト2位指名を受け入団します。

武器は威力と角度のある速球。そこに落ちる変化球を混ぜ込む為、高い奪三振率をほこり、主に中継ぎ~救援で登板するとこが多かったです。
その為、引退時の勝星はわずか39勝でしたが、彼を知るファンからすれば、毎年二桁勝利したような錯覚に陥られる方もおられたとか。 そのくらいインパクトのある投手でした。

1990年からはロッテでプレー。(高橋慶彦たちと共に、水谷善、高沢とのトレード。)
移籍初年度、81.0イニングしか投げなていない中、いきなり10勝4敗3セーブと好投。意地を見せまず。
ただ、その後は成績が低迷。 1996年、再度古巣の広島カープに戻り、オフに引退。

 = 通算成績 =
 39勝  36敗  0ホールド  13セーブ  716奪三振  防御率3.89
 オールスター出場1回

伝説のプロ野球選手  谷 佳知

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身長173cm 体重70kg少々(入団時)の谷が、大卒→社会人野球と経由しながら、プロ実働19年もの間、第一線で活躍できたのは、その卓越した身体能力があればこそ。
香川県の強豪校・尽誠学園時代、第71回(1989年)夏の甲子園大会に出場し、1番打者としてチームベスト4の原動力になる活躍。
その後、出身地の大阪商業大学に進学すると関西六大学リーグ打撃部門のタイトルを独占。(リーグ三冠王、MVP、べストナイン3回)
卒業後、社会人野球・三菱自動車岡崎に入ると、第66回(1995年)都市対抗野球大会でも猛打ぶりを発揮し、若獅子賞を受賞する活躍。 ついにはアトランタ・オリンピック日本代表に選ばれ、予選ではMVP、本戦では銀メダルを獲得。 これだけの選手が、25歳までプロ入りしないケースも稀ならば、高校→大学→社会人野球と、全てにおいて抜群の実績をあげたケースも稀。
1996年秋のドラフト会議において、オリックスより2位指名を受けプロ入りとなります。

即戦力期待の1997年、101試合に出場し、309打数 84安打 打率272 とまずまずの結果を残すと、翌1998年にはプロ野球にも馴染み、135安打 打率284 と活躍しレギュラーの座を獲得。
以後、11年連続100安打以上(オリックス9回、巨人2回)と、球界を代表する選手となります。
(1999年~2003年の5年間は、99年=155 00年=150 01年=178 02年=171 03年=189 と全てが150安打以上という猛打ぶり。2003年には最多安打王を獲得。)

また俊足でもあり、2001年にはシーズン52二塁打(日本記録)を樹立。
1999年~2002年まで4年連続で二桁盗塁も達成。(99年=24、00年=23、01=27、02=41)
2002年は盗塁王に輝きます。

イチローが抜けたオリックスを支え、パ・リーグを代表する選手として活躍。 更には2003年、国民的・女子柔道のスターであった田村亮子と結婚。 全てが順風満帆かと思われる中、2005年、2006年とやや精彩を欠く結果に対し、週刊誌は結婚による後遺症?のような推測バッシングを開始。
それらもあってか・・? 2006年オフ、巨人軍に電撃トレードで移籍します。

移籍1年間は、172安打 10本塁打 31二塁打 打率318 と大活躍。 2番・レフトとしてレギュラー獲得。
巨大戦力の巨人軍において、移籍1年目からレギュラーを獲得し、タイトル争いにも加わる活躍を見せた選手は稀。 またこの年に1500安打を通過しており、2000本安打達成は確実と思われました。

しかし・・・ 故障等もあり、徐々に出場機会が激減。こうなると選手層の厚い巨人では活躍の場を失い、他の名選手同様に飼い殺し状態に・・・。 そして2000本安打まで残り79安打とせまった2013年オフ、戦力外通告・・・。 なんとか古巣のオリックスに拾われますが、2014年=2安打 2015年=5安打 と結果を出す事ができず、結局は2000本安打目前にして引退。

社会人野球経由がなければ・・・ 移籍先が巨人軍でなければ・・・ 確実に2000本安打を達成した逸材。
小柄な体格ながら ”走・攻・守” そろった名選手が名球会に届かないとは・・ 実に残念です。

= 通算成績 =
1928安打  133本塁打  741打点  167盗塁  打率297
盗塁王1回  最多安打王1回  ベストナイン5回  ゴールデングラブ賞4回  月間MVP1回
シーズン最多二塁打1回  シーズン最多二塁打52本(日本記録)  シーズン189安打(パ・右打者記録)
シーズン最多犠飛1回  シーズン40盗塁以上成功率911(日本記録2位)  オールスター出場6回
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