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伝説のプロレスラー ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田

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ブレーンバスターやエルボー・ドロップ等、数えきれないほどの合体技が存在しますが、決定版と言えば ”30文キック”で決まり(笑)
これは馬場と鶴田がタックを組んだ時、たまに見せていた技。肩を組み合い息を合わせて、お互いがハイキックをした時、馬場の16文と鶴田の14文がWヒット ・・・ と書くと、凄い必殺技に思えますが、なんか中途半端な ”刺身のツマ” のような必殺技でもありました。
しかし身長209cmと言われる馬場のパートナーは、やはり大型レスラーがよく似合います。
日本プロレス時代は、身長196cmの坂口がコンビを組んだ時、「東京タワーズ」って言われました。
確かに二人とも日本人離れした大きさですが、残念な事に坂口の実力では人気面の方がもう一つ。
柔道は強くても、持病の腰痛もあってか技も動きもパッとしない坂口が、BI砲・テクニシャン猪木の後釜に座るのはちょっと早い・・。 その坂口も新日本入りとなり馬場ピンチ! そんな時、彗星の如く現れたのが若大将・鶴田友美ことジャンボ鶴田。 細身ながら197cmの長身と柔軟な身体。高い身体能力で日に日に成長。馬場のパートナーとしては合格でしょうね。

当時(昭和47年以降~50年頃)は宣伝するにも方法が限られていた為、プロレスの大興行前となると、一日早くトップレスラーは現地に入り、人が沢山集まる有名デパートでサイン会を行ったものです。
サインをもらった人や、そんな場面に遭遇した人が、当日試合会場に足を運んでくれるよう、レスラー達はこのような地道な営業活動を行っていたのですよ。 今のレスラーも見習ってほしいもの。
馬場&鶴田のコンビはサイン会でも大活躍。 この手のサイン、けっこう残っているみたいですからね。

ちなみに、伝説の世界最強タッグ戦として有名な「猪木&坂口 VS ゴッチ&テーズ」の時も、4人が並んでのサイン会が行われた模様。もしもタイムスリップできるのであれば、絶対参加しますけど。
モハメッド・アリもチビッコファンには気軽にサインしていたとか。これまた羨ましい限り。

たった一枚のサインから、昭和の匂い(思い出)がプンプンしてきますね!
懐かしくも古き良き時代・・・  もう一度、あの頃に戻ってみたい心境です・・・。

伝説のプロレスラー  ジョニー・エース

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1988年(昭和63年)、全日本プロレス初登場したジョニー・エース。
193cm 112kg の恵まれた体格から放つ必殺技 ” エース・クラッシャー ” は、来日を重ねるごとに進化していき恐怖の技に。 怪力でもあり、中軽量のレスラーなら軽々と投げ飛ばす暴れっぷりが評判を呼び、1990年代の全日本プロレスにおいて常連レスラーになっていきます。
デビューが1986年ですから、わずか2年でスター街道。 レスリングが出来ないレスラーを極端に嫌うジャイアント馬場の眼にかなうあたりも超大物の気配・・・。

タッグマッチの名手でもあり、スティーブ・ウィリアムスやスタン・ハンセン、更にはライバル関係でもあった小橋健太ともコンビを組んで大活躍。 1998年には三沢光晴の三冠ヘビー級王座に挑戦し、あわや新チャンピオン誕生かという名勝負を行いました。 1990年代の全日本を語るには忘れられない名レスラーであります。

デビュー当時は弟の ” ザ・ターミネーター ” とコンビを組んでいましたが、この二人の実兄は、あの ” ザ・ロード・ウォリアーズ ” のアニマルと言いますから驚きです。 いつも顔面ペイントしているので、エースとの比較が困難ですが、確かに横顔を見れば、どことなく似ているように感じます。

とにかく日本大好き。 1988年~引退する2000年までの主要マットは全日本。 (一説では、1999年にジャイアント馬場が永眠し、2000年、三沢たちが全日本を脱退したことにより引退を決めたとの事)
現在はWWE副社長(この団体には多数の副社長がいます)となって、若手の育成に当たりながら、プロレスの灯を守られておられます。

伝説のプロレスラー  西村 修

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身長186cm 体重105kg というスリムで恵まれた体格を活かし、サブミッション(関節技)の極意を追い求める仕事人というイメージの強い西村修。 長州力の横暴な指導方針に強く反発した事から、ダーティなイメージをもつ方もおられるかもしれませんが、あくまで理論を重視しての事。 まさに古き 「仕事人」・・。
その才能は新日本プロレス入りした時からピカイチで、トレーナーには藤波辰巳の他、カール・ゴッチ、ヒロ・マツダ、そしてドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコという豪華さ。(フロリダ遠征時における師弟関係が多い)

大半のレスラーが華麗なテクニックを駆使しながら、ルチャと一体化したような現代プロレスを展開する中、地味ながらプロレスの真髄を極めようとする姿から、ついた異名は 「戦う哲学者」「自由人」「ミスター無我」・・・。
若き頃は、ムーンサルト・プレスやドロップ・キックも多様していたように、十分に現代技にも対応できますが、どちらかと言えば師弟関係で伝授された古典技を得意とするのが特徴。
アントニオ猪木=卍固め、インディアン・デスロック    ジャック・ブリスコ=足4の字固め
カール・ゴッチ=関節技、ジャーマン・スープレックスホールド  ヒロ・マツダ=各スープレックス
ドリー・ファンク・ジュニア=スピニング・トウ・ホールド、エルボースマッシュ
藤波辰巳=ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ  ・・・・ 等々。

吸収力が早く、どの名レスラーからも 「過去最高の弟子」 と称賛された理由の一つとして考えられる事は、格闘技経験のないまま新弟子となった事で、妙なこだわりや癖がなかった・・・ 事があげられます。
大抵、レスラーを志す者って、柔道、空手、レスリング、ボクシング・・ といった格闘経験がありますので、新しいものには興味を魅かれても、古典技や基礎面には興味が魅かれない者が多いのですが、西村は野球&バレーボールの出身者ですから・・・。

ただ・・ ひたすら理想のプロレスを追及するあまり、一つのものを極めるのではなく、四方から幅広いプロレスを吸収したい心境の変化が発生。 その為、新日本にこだわらず、どの国のどの団体にも参加しながら、あらゆるプロレスを極めたいと2006年、新日本プロレスを退団。 ”無我ワールドプロレス” を設立し、ハッスル、全日本プロレスへと境地を求めて参戦・・・。 ついには政治家への転身も・・・。 
これぞ 「無我」 ってやつなのでしょうか??

以前、腹膜腫瘍を患った事がありますが、日本古来の食生活に切り替える ”民間治療” を取り入れた結果、この難関腫瘍を克服した経緯があります。 このあたり ”古き頑固な現代人” って感じがするエピソードです。

今更ながら・・ 東京オリンピックって本当に必要?

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東北大震災(東北地方太平洋沖地震)があったのが、2011年(平成23年)3月11日金曜日14時46分・・・。
早いもので来年3月、5年目を迎えようとしています。
歴史上の記録には度々出てくる大震災も、現実として目にした事はなく、今回の大地震がいかに想定外の規模だったことか。 そんな規模の震災に、人間が計算して作り上げた文明(原発とか)はひとたまりもなく崩壊。 自然の驚異をあらためて実感させられました。
そのような中、「震災と原発事故があった日本が、元気を取り戻すには東京でオリンピック開催が必要だ」 との声をあげたのが、当時の知事だった石原慎太郎氏。 このワンマン知事の発言力は政界も動かし、ついには現実のものとなったわけですが、いざ話が動き出したら、しょうもないミスやら○○○の皮算用ともいうべき予算失敗のオンパレード。 なんせ今回も亡霊のようにあらわれた元・総理大臣様が、名誉会長とかを名乗って無責任かつ放漫発言を繰り返すのですから、まともな国民の大半はしらけムード。 某雑誌のアンケート結果を見ても、注目していると答えた方は一握りの有様。 そんな中、先日の報道では、開催費用が当初予定の3千億円から、5倍超にあたる1兆8千億円になるとの事。 一体、どうなっているのでしょう。 
元々、東京都が1500億円を出し、国の支出はゼロという有り得ないプランから始まった誘致活動ですから、ここまで当初と現時点の金額差が出てしまっては、開催する意味すらもたなくなるのではと懸念しています。
国民の知らないところで決められ、知らないところで進んでいる東京オリンピック。 
労働人口の4割が非正規社員という厳しい現状下において、そういった者たちよりも巨額資金のオリンピックの方が大切って考える人たち・・・ 元・総理大臣にもかかわらず自己中心な会長様のような人間にはなりたくないですね。
本当にこんなトラブルばかりのしらけオリンピックが、東北災害で苦しんでいる人たちの、心の糧になるのでしょうかね?? 格差社会で苦しみ、生きる希望を失っている人たちを幸せに導いてくれるのでしょうかね??

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                       ★ ベラ・チャスラフスカ ★
       東京オリンピック(1964年)女子体操金  メキシコ・オリンピック(1968年)女子体操金

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                  ★ フローレンス・グリフィス・ジョイナー ★
          ソウル・オリンピック(1988年) 女子100m 200m 400m 金

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★ ナディア・コマネチ ★
モントリオール・オリンピック(1976年) 女子体操金  モスクワ・オリンピック(1980年) 女子体操金

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★ 君原 健二 ★
メキシコ・オリンピック(1968年) 男子マラソン銀

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お咲希さん ままごと遊び 季節のフルコース料理編

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平成27年12月19日(土) 晴れ
今年は12月の土・日が何故か晴れ続き。 
11月中旬からの風邪がいまだに治らず寝込みがちの私と比べ、嫁さんと ”お咲希さん” は元気いっぱい。
特に嫁さんは流石、農家の娘。 今日も朝から掃除・・ 倉庫の片付け・・ 洗濯・・ そして野良仕事・・ と大忙し。
っとなると、毎度のことながら ” お咲希さん” は暇。 近所のおじさんに大きなイチゴをもらって食べたりと、相変わらずの自由人ぶりを発揮していましたが、そのうち始めたのが料理。 食材は、庭に落ちている紅葉の葉っぱ。
玩具のガスコンロまで用意し、各入れ物に葉っぱの料理を入れて完成。 本人曰く、” 葉っぱのサラダ ” ”葉っぱの御寿司 ” ” 葉っぱの焼き肉 ” ”葉っぱのスープ” ・・ なんだとか??
楽しく遊んだあとは後片付け・・・ をしなかったので、ママにしかられた ” お咲希さん” でしたが、とにかく元気に遊びまわっています。

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まずはフライパンで炒め物? 料理にとりかかる ”お咲希さん” です。

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食材の準備ができました。 っという事で、ガスコンロの用意をします。

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完成したそうです。 紅葉(もみじ)フルコースの出来上がり。 ちなみに黄色い入れモノは、弁当なんだとか。
一体、どこで覚えるのでしょうね? なかなかの出来栄えと思うのは親馬鹿の証拠?(苦笑)

伝説のプロレスラー  マッハ隼人

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メジャー団体の弱小化によって様々なタイプの団体が乱立する日本プロレス界。 
結果、小型ながら身体能力の高いレスラーが続々と誕生し、見たこともないミラクル技を展開する現状は、皮肉にもレベルアップした高度なプロレスへの転換を支え、現在風にイメチェンした二枚目レスラーの活躍もあって、今、世の中はプロレスブームなのだとか。 

「体格が劣っても、実力さえあれば受け皿がある時代」 に生まれた者たちは幸せですね。 しかし昭和期においては体格基準が厳しく、レスラーを目指そうにも日本団体では応募もできなかったのが実状。 
当時のプロレス大百科によりますと、新日本プロレスの場合、「応募資格は180cm 75kg以上」 となっており、よほど優秀な格闘歴や輝る才能がなければ門前払い・・。 実はマッハ隼人も、新日本入団を希望するも、体格面が劣るが為に審査で不合格になった一人であります。

プロからも誘いがあった程野球が上手く、社会人では名門・東洋工業野球部(現・マツダ)にて活躍。 反面、格闘技が大好きで、空手2段、柔道2段という運動神経抜群のエリートながら、身長176cmと小柄な事により、希望していたプロレス入りを海外に求めるしか方法がなかったマッハ。 
小柄レスラーの本場であるメキシコに単身で渡ると、地元のレスリングスクールで基礎を学び、メキシコでレスラーデビュー。 空手を使うマスクマン 「カラテ・ハヤト」 は評判を呼び、地元ミドル王者に君臨。 更には本場仕込みのルチャもマスターし、アメリカにも進出する等大活躍。 そんな折、国際プロレスの鶴見五郎に見初められ、国際プロレスの救世主として1979年(昭和54年)帰国し入団となります。

しかし・・ 時すでに遅し・・。 国際プロレスは1981年9月30日(昭和56年)をもって解散。
この頃には先にフリーとなっていた事から、ルチャが使える日本人として、新日本ならば初代タイガーマスクや藤波辰巳とのタッグや抗争にも参加できたかもしれませんが、またも活躍の場をアメリカに定め渡米。 このあたりは入門を蹴った新日本プロレスに対する意地があったのかもしれません。

そんなマッハが日本に戻り注目を浴びたのは1984年、第一次UWFに参戦した事によるもの。
元々空手を得意とし、シュート系への想いが強かっただけに、佐山聡との対戦はマニアックなファンに注目されますが、ザ・タイガーに扮した佐山の前に歯が立たず、空中殺法でもキックでも翻弄されっぱなし。
最後はタイガー・スープレックスの前にあっけなく敗戦。 (この試合、私も当時としては珍しいレンタルビデオで観ましたが、実力差が激しくて全く相手になっていませんでした。)
その後も、シュート系に取り組みながら、自身の持ち味であるルチャを展開するも、翌1985年、「練習についていけない。 あと10年若かったら・・」 の名(迷)言を残して引退。

伝説のプロレスラー  アニマル・ウォリアー

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「貧困な少年時代の御馳走はネズミ」「喧嘩に明け暮れる日々で、ついにはシカゴで用心棒をしていた」「暇つぶしの為、朝から晩までひたすら200kgのベンチプレスをしていた」・・・ アニマル・ウォリアーの宣伝は伝言ゲームのように誇張され、ついには化け物紹介のような内容に・・・。 でも、仕方がありません。 何分にも、いかつい顔面ペンキングにゴツイ筋肉、そして荒くれ者スタイルで好き放題に大暴れするのですから。

1980年代~1990年代にかけて、この無法者コンビこそが世界一強いと思った方は多かったと思いますが、上半身は凄くとも下半身が細身だったホークに比べ、全身筋肉の塊だったアニマルは最強との声も。
確かに100kgくらいの中軽量レスラーなら、軽々と持ち上げてデッドリードライブ。 大型レスラーでもロープに振ってのラリアートで半回転ノックアウトですから、それまでプロレスとはあきらかに違います。

ウォリアーズが出現する前のプロレスは、まず組み合ってから寝技でポジションをとり、スタミナを奪いながら大技(フィニッシュ)に切り替えていくスタイルでした。 しかし彼らのプロレスは 「秒殺」 を目的とし、駆け足で入場するやいなやロープとマットの隙間から入り込み、後は好き勝手に痛めつけ、相手の反撃を待たずして圧勝するスタイルでした。 

当初は、「ショー化されていくアメリカン・プロレスだから客ウケするのだろう」 と思っていましたが、1985年、全日本プロレスに登場した際、カーン&アニマル浜口を軽く一蹴。 現役復帰したテリー&ドリー(ザ・ファンクス)にも圧勝内容の試合運び。 誰もが、身長190cm 体重130kg のアニマルを倒す事は不可能にさえ思え、見せかけだけのショーマンではない事を実感しました。

ただ、一時期は客を熱狂させてくるのですが、単調な試合運びと、中身の伴わないプロレスは飽きられてくるもの事実。 そこを話題性とカリスマ性でフォローするあたりは流石というところ。 新日本プロレス参戦時には、アニマルの負傷から佐々木健介を得た事を幸いに、” トリプル・ウォリアー” を名乗り大暴れ。 話題性を振りまきました。 (あまりに人気があったので、人気漫画 ”北斗の拳” にも登場した程)

「アイアン・マン」の入場テーマを聞くたびに、昭和末期に現れたプロレスの変革者 ”ウォリアーズ” 及び、強烈なインパクトのアニマル・ウォリアーを思い出します。

ザ・ファンクスのテーマ 「スピニング・トウ・ホールド」のレコード

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全日本プロレス発足5周年を記念して企画された 「世界オープンタッグ選手権」は、本場アメリカでも実現できないような豪華レスラーばかり。 その中でも人気&実力が高かったのが、元NWA世界ヘビー級チャンピオンコンビの「ザ・ファンクス」・・・。 知的派で業師のドリー・ファンク・Jrと、激情型で涙もろいテリー・ファンクは実の兄弟。 そして得意技は、回転式脚殺しこと、” スピニング・トウ・ホールド ”
そのスリリングに満ちた必殺技を、日本が誇るロック・グループ 「クリエイション」 が音楽にイメージし、ファンクスの為に作り上げたのがこの曲。 リズム感溢れるソリッドなギターと、覚えやすいメロディ。 緊張の極致をいくサウンドは、まさにスピードとパワーのプロレス熱気をそのまま音にしたと言ってよい。  
                       =レコード記載の紹介より=

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アブドーラ・ザ・ブッチャー肉声入り 当時物レコード

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このレコードがいかにレアものか・・・ 
B面で当時の実況担当だった 「倉持隆夫」 と 「松永二三男」 が、ブッチャー賛歌である 「ブッチャー・ザ・グレイテスト」 という歌を熱唱しています。

=歌詞=
マカラ カシトモマカラ カシトモ マラ マラハ♪
プエルトリコの黒い風が 嵐のように吹きまくる 
燃えるひとみをギラギラさせながら さすらう旅路は 四角いジャングル
血を流しても 不死身の男はおそれない
いとしいあの娘に ささげるものは プエルトリコの黒い風 エエエエ・・・・
Go Go  ブッチャー  ヘッドパットブッチャー
カモンベイビー ブラックパワー グレイテスト! グレイテスト!

今聞いたら、なんともアホらしいと言いますか・・ 
でもこんな歌が熱唱されていたあの頃、「昭和」という良き時代でした・・・。

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ブッチャーのシューズの先は、サイの角のようになっており、「凶器シューズ」と恐れられていましたが、実は綿がはいった飾り物でした。 (愛媛県宇和町にあった”麺処いけだ” に実物が飾ってあり、じかに手にした時、長年恐ろしいと思っていたブッチャー像がガラガラと崩れていきました・・泣)

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ミル・マスカラスのテーマ 「スカイ・ハイ」 当時物レコード

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「地面(マット)にいるよりも、空中にいる時間の方が長い」 と言われた伝説の覆面レスラー ”ミル・マスカラス”
日本プロレス時代は 「悪魔仮面」の異名ながら、全日本プロレス参戦後は人気者となり 「仮面貴族」 に昇格。
夏になると来日し、その情報を嗅ぎ付けたチビッコ・プロレスファンは羽田空港に集合。 
その数、多い時では3000人とも言われましたから、いかにマスカラスが人気者だったかわかります。
そんなマスカラスのイメージにピッタリだったのが 「スカイ・ハイ」 です。 入場時にこの曲のイントロが流れた瞬間、お客さんのボルテージは最高潮。 マスカラスにさわろうと花道はもみくちゃ・・・。
そんな熱きファンが多かった時代・・・ これぞ!懐かしき良き昭和です!!

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沢村忠 真空とび膝蹴り 「キックの鬼」 レコード

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1970年代の忘れられぬ格闘ヒーローが 「キックの鬼」 の異名をもつ沢村忠です。
身長174cmという長身(当時、この体型でここまで動ける日本人は稀でした)から放つ 「真空とび膝蹴り」 が観たくて、あまり興味があったわけでもないキックボクシング中継にハマっていました。
そんな沢村をモデルにしたアニメが、「キックの鬼」・・・。
” ノックアウトだ~ 右まわし蹴り~♪ いまだチャンスだ 真空とび膝蹴り~♪ ” の歌詞は、今でも忘れられません。 
そんな昭和のヒーロー・沢村忠、自動車整備工場で働くかたわら、今も元気に子供たちに空手を教えておられるとの事。 72歳(H27年時点)の御高齢。 流石に 「真空とび膝蹴り」 はできないと思いますが・・・。

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実際の試合を観ましたが、全盛期はアニメの如く相手の顔面に膝を入れる跳躍力がありました。 

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1970年代は、まさに 「スポ根」時代でもありました。 ”キックの鬼” 以外にも名作品多数。 個人的に好きだったのは①巨人の星 ②あしたのジョー ③空手バカ一代 でしたけど・・・。

ブルース・リー「死亡遊戯」 当時物レコード

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武術系アクション映画の傑作イチオシが、ブルース・リーの「死亡遊戯」です。
クライマックスに訪れる各階にいる強豪と戦うシーンは、今見ても迫力満点。 とても1972年に制作された映画とは思えません。(但し、撮影途中にリーが急死した事により代役を加えてのロケとなった関係で、上映は1978年)
1970年代、持て余す青春を送った人ならば、ブルース・リーと聞くだけで当時の情熱が甦るはず。 
「あの頃、確かに若かった・・・」 1972年(昭和47年)に20歳だった方も、今では63歳(H27時点)・・・。
年金生活目前だからこそ、再びあの頃の思い出を・・・。

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1973年、ブルース・リーが32歳の若さで突然の永眠。 葬儀はまさに世界葬の如く・・でした。

伝説のプロレスラー  ミスター高橋

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プロレスに命をかけ頑張るレスラー達は「同じ釜の飯食った仲間」のはず。なのにその者達を無視して、プロレス裏の暴露本を連続出版。 色紙に「人情」ってありますが、どこに「人情」があるのでしょうね??

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一体、この男は何者なのか・・?? 個人的には一番苦手なタイプの男。
この男の存在は、新日本プロレスを観ていた1970年代後半~1980年代にかけ、常にグレーゾーンでありました。
どうやら元・プロレスラーのようですが、私が覚えているのはレフリーとして動いている姿のみ。 一介のレフリーに過ぎないと思っていたところ、来日する外人世話係りもしており、レスラー達には 「やたらとサインとかファンサービスをするな」 と陰で仕切っていたとか。 あのアンドレが新日本時代、殆どサインをしなかったのも、高橋の指図だったという記事を読んだ事があります。
(悪役や化け物じみたレスラーが、マットを降りてニコニコでは、試合そのものがインチキとして見られる。その為、悪役はマットを降りた後も、常に悪役姿でファンと接しなければならない・・ といった、高橋論があったとも言われていますが・・・)

そんな哲学じみた考え方ですので、新日本プロレス人気が下降した折、プロレス裏の暴露本を発売。(2001年)
この本を出版した意図の一部を紹介すると・・・
① プロレスは全ての流れにおいて勝敗が決まった上で行う ” 肉体の最高傑作エンターテーメント ” である。 プロレスの内容を真剣勝負だの八百長だのといった見方するからファン離れが起こる。 勝敗の決まった肉体ショーだと思って楽しめば、その超人的な肉体にファンは魅了され、ヘンな八百長疑惑から解放される。
② プロレスラーはこの最高の肉体ショーに誇りをもて。この過酷な闘いを演じる為に、どれだけの努力とトレーニングが必要なのか・・。 最高の肉体ショーを演じれば、見るファンにはその過酷さが伝わる。
③ レフリーとは、決まった勝敗の通りの結果を導き出す為の存在である。(仲立ち)
④ プロレスの本質を知った上で観戦すれば、妙な疑いなど起こらない。 レスラーは胸を張って、最高のエンターテーメントを演じ、プロレスの発展につとめるべきだ。
⑤プロレスのグレーゾーンを払うことで、世間におけるプロレスの地位向上を図りたかった。
⑥いつまでもプロレスの真実を隠し、ショーという言葉に対して抵抗感を感じるようでは、プロレスの未来はない。

高橋に言わすと、もはや現在(当時)の日本プロレス界のレベルは、格闘技を装って嘘を貫き通す事が無理な状態に陥っているとの事。 それだけ質の高い肉体ショーなんだから、胸をはれ! っと言いたいのでしょうが、暴露されたプロレスラー達は大激怒。 
あくまで 「八百長と言っているのではない。 最高の肉体ショーだと言っている。 八百長とショーは全く違う」 と主張する高橋に対し、大半のレスラーは怒り心頭、恨みつらみ状態。 中には 「過酷なトレーニングを積み、試合にのぞむ我々が、レフリーなんかにあれこれ言われる筋はない!」 と言い放つ者までいる有様。

私個人主観でモノ言いますと、周りや空気を読めない、このような自己的感覚での 「プロレスの真理」 追及者が、結果、プロレスをダメにしていったように思います。
ファンだって馬鹿じゃありません。 この程度の暴露本なんか読まなくても、そのヘンの事情くらい読んでいます。
真剣なのか? 八百長なのか? といったグレーゾーンも、またプロレスの神秘的な要素であり、魅力でもあったはず。 数学書じゃあるまいし、プロレス観戦するのに「真理」なんて哲学的な話を持ち込むなど滑稽千万。 
プロレス(特に昭和のプロレス)は、難しい事など考えないで、純粋・単調に 「凄かった」「怖かった」「面白かった」を楽しめば◎。 
猪木の言う 「プロレスラーは何でもいいから一般人にはない超人的なものをもて!」 が全てです。 その部分さえしっかりアピール(ファンの場合は理解)できれば、アホらしいプロレス理屈なんていりません。

当時物 「ROCKY(ロッキー)」 Ⅰ~Ⅲ レコード

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「夜明けのアスファルトは抵抗が強い。フィラデルフィア、1975年の冬、吐く息も白く、一人の遑しい若者が静まり返ったダウンタウンから山の手をひた走る。 流れる汗に熱い夢と小さな愛をにじませ、ガッツなトレーニングに励む奴の名は、世界ヘビー級チャレンジャー ロッキー・バルボア! 一介の4回戦ボーイとして明日無き青春を送っていた盛りを過ぎたボクサーが、” イタリアの種馬 ” というニックネームがもとで、世界ヘビー級タイトルマッチの挑戦者に指名される・・・」

1976年(昭和51年)に上映されたボクシング映画 「ロッキー」 は、第49回アカデミー賞作品賞及び、第34回
ゴールデングローブ賞ドラマ作品賞を受賞する大ヒット。 若きシルベスター・スタローンの名演技も大好評。
ついにはロッキーⅡ、ロッキーⅢ・・・ と続いていきます。 
名作には名曲有り! ロッキーのテーマを聴くと勇気や元気が出てくる方って、今でも多いそうです。

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この頃の宿敵 「アポロ」 は嫌な奴でした。 後に二人は親友に・・ そしてアポロに悲劇が・・・

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この映画には、若き日の「ハルク・ホーガン」も出演。 ホーガンがアメリカで成功したきっかけとも言われます。

昭和の懐かしきドラマ 「走れ!ケー100」 当時物レコード

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TBSドラマ 「走れ!ケー100」 を覚えている方、まだおられるのでしょうか??
日立がスポンサーとなり、1973年(昭和48年)~1974年(昭和49年)にかけて、全51話が放送。
主演は、1979年(昭和54年)、人気番組 「びっくり!日本新記録」 の4代目司会をつとめた ”大野しげしさ” 
内容は、鹿児島で鉄工所を営む伊賀山紋太のもとに、夕張炭鉱で使用していた軽蒸気機関車がスクラップのためやってきます。 それを道路で走れるよう改造。 全国を巡るというありふれたストーリー。 更にケー100は意思をもっており、自分の判断で動く事もしばしば・・ 弱点はヘッドライトを袋で隠される事。 隠されると意思表示しなくなり普通の機関車に戻ります。 また意思表示できる時は人間とかわらない機関車?となる為、タイヤを毒蛇にかまれた時は瀕死となり、血清を注射して生き返ったことも(笑) ってあたり、いかにも昭和ドラマらしい設定ですね。
この「ケー100」 には本物のモデル機関車があり、国鉄が使用していた「ケ100型蒸気機関車」 がそれにあたるのだとか。

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おいおい、こんな妙な乗り物でナンパかい? って思わせる絵柄。 女の子たちも、昭和の娘そのもの。
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世界文化遺産(厳島神社)の前で、こんなロケするな! ってあたりが、いかにも昭和です。

昭和の懐かしきドラマ② 「熱中時代」 当時物レコード

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1978年(昭和53年)に放送された日本テレビ系学園ドラマ 「熱中時代」 は、主題歌 ”ぼくの先生はフィーバー”の大ヒットもあって、今でもスカパーで繰り返し放送されている伝説的ドラマです。
話の内容は、北海道・小樽から東京に出てきて教員を目指していた北野広大のもとに、教員採用通知が届きます。(結婚退職の女性教員が出たので即採用するというもの) 北野は赴任先の校長宅に下宿。 同じく下宿している教員やクラスの子供たちと巻き起こす事件の数々。 破天荒ぶりが保護者から批判される事も・・。 
刑事ドラマ 「相棒」 のヒットで、今や刑事役のイメージが強い水谷豊が演じる、ちょっとマヌケだけど子供たちに慕われる先生ぶりは、当時の社会に大反響。 「理想的な担当」 とも言われました。
但し・・ 今の世代が見たらどうなんでしょうね?? 昭和50年と平成27年では時代感が、まるっきり違いますからね・・・。 (たぶん、共感する人は少ないかも・・・)

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昭和の懐かしきドラマ③ スクール・ウォーズ「ヒーロー」レコード

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ラグビーの強豪校として長年親しまれてきた ”伏見工業” が統合され、校名が来年より変わります。
このラグビー部と、当時の監督・山口良治(元日本代表フランカー)をモデルにドラマ化され、今なお根強い人気を誇るのが ”スクール・ウォーズ ~泣き虫先生7年戦争~” です。
荒れ狂う1980年代の学校社会を忠実に再現。 恵まれない家庭環境や過保護の親、仕事優先からおこる家庭崩壊、いじめ、友情、時には仲間の死・・・ 荒れた時には理解ある校長、学校が落ち着くと厳しい校長へのバトンタッチ・・・ 話の展開にはちょっと強引な場面もありますが、教育現場の立て直しに取り組む姿勢は、他方多数の方から共感を得られました。
スクール・ウォーズを見てラグビーを始めた方も多いはず。 学園ドラマは多くとも、この作品こそ最高傑作だと思います。 
主題歌はドラマ・ソング女王こと 「麻倉未稀」 ・・。 映画のカバー曲 「ヒーロー」 を聞くと、今なお胸がときめき、若き頃にタイムスリップしてしまいそう(笑) 1984年(昭和59年)作品。

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1980年に入ると、世の中はいっきに現代化していきます。 反面、家庭暴力や登校拒否、窃盗、強姦、いじめといった学生の社会問題が浮上。 「子供が子供を産む時代」 と言われました。 昭和から平成の世に移る転換期こそが1980年代の特徴と言えます。

昭和の人気者 NHKできるかな 「ゴン太くん」ひざ掛け

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1970年(昭和45年)~1990年(平成2年)にかけ実に20年、NHKの幼児・低学年工作番組として親しまれてきた 「できるかな」・・。 終了して25年(H27年時点)が経過します。 っという事は、終了時(H2年)に5歳だった方も、すでに30歳になっているわけですから、「できるかな」を知っている世代も歳をとりました・・・。
番組内容は、のっぽさん(高見映)とゴン太くん(井村淳)が身近な廃棄物(牛乳パックやプラ容器)を使って、テーマにそった数々の作品を作るというもの。 
器用でしなやかに動くのっぽさんに対し、不器用でバタバタ動くゴン太くんのコントラスト・コンビが面白い上、番組中には一切会話がなく、「神の声」と呼ばれる解説?(つかせのりこ他)のつっこみが番組を盛り上げました。
更に音楽や歌も導入。 工作中に流れる曲にそって、のっぽさんがリズムよく切り貼りする姿も大好評。
今でも、「もう一度見たいNHK番組」の上位をしめる伝説の人気番組です。
ちなみにのっぽさんの身長は182cm。 その上背を活かす為、ゴン太くんは「幼児らしく頭でっかちで、バタバタするイメージ」から作られ3等身。 帽子をかぶっているのも、このバランス調整の為なんだとか。

★ のっぽさん(高見映 現81歳) ★
タップが得意。 もじゃもじゃ頭にチューリップハットをかぶり、番組中は一切の会話をせずに、身振り手振りや表情だけで状況説明を行います。 その為、「のっぽさんはしゃべれない人」と信じていた人が大半。 最終回にしゃべった時は、7時のニュースにもなりそうな大事件として世間の話題に。 のちに高見さんが語られましたが、「実は僕、工作苦手なんです」 との事。 正直、意外です。

★ ゴン太くん ★
「けものでもなく、人間でもない生き物」 をテーマに作られました。 好物は ”おにぎり” で、カレーライスも好むようです。 ゴン太とは大阪言葉で 「やんちゃ者」 と言う意味。 名前の通り、番組中にも思い通りにならないと怒り出し、のっぽさんの作品に八つ当たりする事も度々。 このあたりは 「幼児らしさ」 をイメージした演技。
ちなみに、馴染の深いゴン太くんは2代目にあたります。 番組終了後、ゴン太くんは白梅学園短大にて保管。
全国から貸出希望が続出した為、オリジナル・ゴン太の劣化が激しく、今では貸出不可。 かわりにプレミアが作られ、現在も全国各地のイベントに参加しています。

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このひざ掛けは当時物ではなく、2006年頃に起こった「ゴン太くん・再ブーム」の時のもの。

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娘・お咲希さんがハマっており、我が家では毎日「できるかな」が流れています。 55型で見ると違った感じ。 内容・構成がしっかりしていて、今の子供でも十分楽しめます。 ” でっきるかな~ はて、はてふむ~♪ ”、

昭和の名作アニメ 「一休さん」 当時物の子供本

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昭和の代表作アニメと言えば一休さん。 1975年(昭和50年)~7年間 296話が放送され、こっけいなとんち話から、戦で焼かれた人々の世相までを忠実に再現。 笑いあり、涙ありの傑作アニメです。
舞台は3代将軍・足利義満(実際は義満が没した時、一休さんは3歳でしたので、もっとあと)が南北朝統一をはたした頃。 天皇家を追われた千菊丸こと一休さんが、有名なとんち小坊主となって、悪者をやっつけたり、無理難題を解決したり。 困った時は座禅を組み、両手の小指で頭をこすると・・ ” ポク ポク チーン ”
意地悪な桔梗屋親子や、孤児のさよちゃん等、ユニークなキャラも多く、児童中央審議会推薦作品として人気がありました。 最終回、もっと大きな世界を知ろうと寺を出る決心をした一休さんは、極秘中の極秘である、父・後小松天皇からもらった菊紋入りのお守りをさよちゃんに。 旅立つ一休さんにさよちゃんは、自分の小袖を切って作った”てるてる坊主”を・・。 もう涙なしでは見られない名作アニメです。

★ 一休さん(宗純) ★ ・・・ 1394年2月1日~1481年12月12日没 
父は後小松天皇と言われ、母は藤原氏の流れを組む日野中納言の娘・照子姫(楠木家との異説もあり)。天皇を呪ったとの罪を着せられ、6歳の千菊丸(一休)共々追放され平民に。以後、”伊予の局” を名乗ったとの事。
その為一休は安国寺の像外集艦に入門。 周建を名乗ります。 17歳で安国寺を出て謙翁宗為に弟子入り。名前を宗純と変えます。 21歳の時、謙翁の死に際し殉死を試みますが、大徳寺の高僧・華叟宗曇に助けられ弟子入り。 洞山三頓の棒と言う公案に対し、「有ろじ(迷い・煩悩)より 無ろじ(仏・悟り)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」 と答えた事から ”一休”に戒名。 1420年夜中、鳴いたカラスの声を聞き大悟(悟り)し、以後は寺を出て、書・詩・狂歌を行いながら過ごす教養人として、また僧侶らしからぬ狂人(肉食・酒飲・男犯・女犯等)として88歳の長寿をまっとう。 死因は老衰ともマラリアとも言われる。 最期の言葉は「まだ死にとうない」・・。

★ 蜷川新右衛門 (新左衛門) ★ ・・・ ? ~ 1448年12月没
伊勢氏に属し、丹波園部にあった蜷川城主。 6代将軍・足利義教に仕え、政所公役の公務を行った。 連歌の達人であり、後に出家し「智蘊(ちうん)」と名乗る。 連歌を通じて実際に一休との交流があったらしい。 
有名な歌として、「浮世をば なんのへちまと おもうなよ ぶらりとしては くさらせもせず」等。 格闘技で有名な武蔵は、蜷川家子孫にあたるそうです。

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最近、こういった名作アニメがなくなりました。 昭和のアニメには話の構成がしっかりしていて、年代を問わずに楽しめる名作が多数あります。 ”古い・新しい” ではなく、良いモノは良い として、見直してほしいものです。

伝説のプロレスラー 金丸 義信

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昭和の終わる1988年(厳密に言えば1989年)までのプロレスは、全日本&新日本というメジャー2団体から構成されていたので、営業面も充実しており、レスラーたちもまとまりがありました。
それが平成となり、馬場&猪木という2大ボスで抑えが利かなくなると分裂・・・。 SWSのように消えていく団体もあれば、ノアのように生まれてくる団体もあれば・・・。 その方向性も様々。 過激インディーFWM、コミカル団体 大阪プロレス、沖縄プロレス・・ 地方独立リーグのような存在の みちのくプロレス・・。 一番多い時には狭い日本国内に男女30団体が存在し、それぞれの団体が格闘技を売りだのルチャを売りだのと活動したと言いますから、昭和を最後にプロレスから離れていった私には、何が何やらさっぱりわかりません。

ただ一つわかってる事は、昭和の終わりから平成はじめにかけ、入門してきたレスラーは慕うレスラーもとに走りやすいという事。 良く言えば団体に何名かいるトップレスラーのもとでプロレスを学ぶ事が出来る為、短期間でレベル向上をはかる事ができます。 悪く言えば、団体内に 「派閥」 を作ってしまう事。 派閥通しの抗争から始まり、時には分裂や脱退を繰り返すようになり、最終的には大量離脱の要因に・・・。

金丸義信は山梨学院大付属高校時代、控え投手ながら甲子園大会に出場。 身長173cmながら運動能力の高さを買われ、ジャンボ鶴田後援会経由でジャイアント馬場預かりに。 馬場より「小柄レスラー特有のモノを身につけろ」 と言われた事をきっかけに、空中殺法を全面的に押し出した試合を展開。 1998年には三沢光晴の代役として2代目タイガーマスクをつとめた事も。 
小橋の付き人からスタート。 その後、秋山軍団入り。 三沢を中心にレスラーが全日本大量離脱の際は同行し、ノア入団。 2002年には新日本プロレス看板タイトル IWGPジュニアタッグ王者に君臨。 ノア退団の後は全日本に参戦・・・。

タイトル歴も面白く、IWGPジュニアタッグ=新日本  GHCジュニアヘビー&GHCジュニアタッグ=ノア
WEWタッグ=FWM  世界ジュニアヘビー&アジア・タッグ=全日本  と複数の団体から獲得。
こういった流れ一つ見ても、昭和のプロレスには見られない事ばかり。
プロレスラーも職業。 いつどうなるかさせわからない過酷な世界を職業とする上で、「フリー」=「自営業」で生計をたてる道って私なら恐ろしいですけどね。
団体が分裂しながら、特色あるレスラーを発掘できる時代を良きとすべきか・・(これによって体格の劣る者でもレスラーになる事が可能となりましたが、レスラー飽和状態ともなり、フリー参戦しながらのスタイルに。)
昭和のように体格規定上、レスラー希望を断念する者が多くとも、団体によって生活が守られる道を良しとすべきか・・ 難しいとこですね。
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