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伝説のプロ野球選手  清川 栄治

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伝説の名投手 ” 沢村 栄治 ” の母校として名高い 「京都商業(現・京都学園)」 出身。
1978年(昭和53年)第60回 夏の甲子園大会では控え投手として出場するも、一回戦で県岐阜商の前に敗退。(スコア3-2) 翌年はエースとなりますが、地方予選で敗退し甲子園行きならず。 こんな未完の大器にプロからの声はかからず大阪商業大学に進学します。

大学時代は1年生時から主戦力として活躍。 関西六大学の最多勝利記録(当時)を塗り替える活躍を見せ、ベストナインにも1回選出され、地方に埋もれている逸材として注目をあびる存在に成長。(リーグ24勝8敗)
しかし、大学4年時に体調不良で登板回数が減ったこと等がマイナスとなってか、期待のドラフトでは指名球団が現れず、1983年、ドラフト外で広島カープに入団。

自称=本格派投手 と豪語するように、速球には自信があったみたいですが、当時の広島と言えば ” 投手王国 ” と言われた程の布陣。 中途半端な速球投手では通用しない事を知るや、自身の持ち味を活かしながらプロに通用する手段を模索。 行き着いたのが 「左サイドスローにより、左打者封じを行う」 というもの。

今でこそホールドといったタイトルも生まれ、中継ぎ投手の評価も安定しましたが、当時、自ら中継ぎを希望する者は稀。 (先発完投もしくは、7~8回からリリーフを仰ぐパターンが主流であり、細かな継投は先発の調子次第という考え方が一般的であった・・・)
一歩間違えれば翌年クビという事も考えられる危険な賭けは大成功。
清川の左打者封じは、ワンポイント・リリーフ(ここぞの場面に打席に立つ左打者の時に登板。その一人を抑えたら降板というリリーフ)として注目されるようになり、今では当たり前の起用方法として定着しています。
1991年、金銭トレードで近鉄バファローズに移籍。1996年には自身最多タイとなる44試合に登板。
反面、この年のイニング数は18.1(打者77名)ですから、試合毎に1~2名の打者を抑えたら仕事終了という事になります。 

1998年、広島に復帰しますが、わずか9試合(打者13名)に登板したのみ。 オフに引退。

清川の功績は、中継ぎ投手の存在を世間に認めさせた事及び、更新時の査定にも中継ぎの正当なる評価をもちこんだ事。 これはインヘリテッド率という方法で、自分の投球で本塁に返した走者の数を、前の投手が残した走者の数で割るというもの。 

現在のプロ野球は完全なる投手分業制ですが、今に行きつくまでに、どれだけ先輩たちの苦労や努力があったのか・・。 こういった側面を球団や指導者は、若手たちに教えて(伝えて)いくべきだと思います。

 = 通算成績 =
 13勝  10敗  0ホールド  12セーブ  375奪三振  防御率2.94

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