1980年代、立野記代とのコンビ ” JBエンジェルス ” で活躍した山崎五紀。
当初は ” フレッシュ・コンビ ” なるタッグ名で売り出され、1986年(昭和61年)1月5日 後楽園ホール において、当時大人気だったクラッシュ・ギャルズを破り、第80代 WWWA世界女子タッグ王座を奪取。
絶対王者を破った衝撃は世間を驚かせ、ついには少年サンデーのグラビアを飾った程の人気ぶり。
これを機に、コンビ名を ” ジャンピング・ボンバー・エンジェルス ” に変更。
以後、ワンパターンな抗争を避ける目的もあり、クラッシュ・ギャルズと共に、極悪同盟との抗争を行わせるという ”松永手法” は大当たり。 ソニーからレコードまで発売。
(但し、タイトルは1986年3月20日 大阪城ホール大会、クラッシュ・ギャルズとのリターンマッチに敗れ、短期間で王者転落しています。)
必殺技は数々の空中殺法。 美少女コンビとして売り出していただけに、「美女が舞い、蜂のように刺す」 と形容された合体攻撃は女子に限らず多くの男性ファンも獲得。 特に立野記代は ” 女子プロレスの聖子ちゃん ” なる異名までもっていました。
1987年(昭和62年)にはアメリカ遠征を開始。 WWF主催のメーンエベンターにも抜擢される人気を博し、1988年1月 WWF世界女子タッグ王座を奪取するという快挙。
驚くべき事に、あの力道山すら憧れたというプロレスの聖地 ” マジソン・スクエア・ガーデン ” にも登場しています。
元々山崎はデビル軍団の一員であり、ヒール出身だった分、ラフファイトにも対応できましたが、身長165cm 60kgという痩体型。 立野の方が体重はあるも、どうしても大型ヒール相手だと攻め込まれてしまいます。 ところがファンとは残酷かつ不思議。 初々しい少女体型の二人には、かつてのミミ萩原の面影を求めるのでしょうか。
そんな人気のJBエンジェルスも、1989年5月14日 山崎の引退(1回目)をもって解散。
山崎はジャパン女子プロレスで現役復帰しますが、ミスター女子プロレスこと神取忍に敗れ再度引退。
結婚して現在はアメリカ在住、夫婦でレストラン経営だとか。一方の立野はいまだに独身の模様。
人気面では立野リードと思われがちですが、試合前のコールを観る限り、女性ファンの多さは山崎。
山崎には、なんとなく応援したくなるムードがありました。